act.11
尋がまりあを追いかけて出て行ってから、一ヶ月以上が経とうとしていた。
結局尋は、海の待つ部屋には帰って来ず、連絡もなかった。
しかし、尋を信じて待とうと決めた海は、普段通りしっかり日々の生活を送るように務めた。
いつ連絡がくるかも分からないので、絵の道具も吉祥寺の自分の家から尋のマンションに持ち込み、そこで仕事をした。
不安がないといったら嘘になったが、尋がいないと何もできないような人間にだけにはなりたくなかった。
皮肉なことに、湯島コーポレーションのパンフレットのイラストを皮切りに、海の絵の評価は鰻登りに上がり始めた。久住はほくほく顔で、まるで海の専属マネージャーのように海のために働いてくれた。
海は、いつになく早いペースで仕事をこなし、それでも絵の質を落とすことなく、熱心に紙と向き合った。
必然的に外に出る機会も多くなり多忙な日々が過ぎていったが、忙しくすることで次々と沸き上がってくる不安を押し殺した。
久住を通して、湯島コーポレーションの峰石が何度か海と接触を計ろうとしていたようだが、海はそれを故意に避けた。その訳を久住には正直に話していたので、久住も海と峰石を取り次ぐことはなかった。
海の話を聞いて、久住自身も少なからず気分を害したらしい。
だが、辻村尋のことにまで話が及ぶと、久住は複雑な顔をしてみせた。
海の想いがどれぐらい真剣かということは、海と付き合いの長い久住にはよく分かったのだろう。「素直に賛成はできない」と久住は言ったが、それ以上海を責めることはしなかった。
しかし、海には尋と連絡が取れないこと他に、もう一つの不安要素を抱えていた。
『瀬尾貢』である。
峰石に言われた通りの黒子が背中にあると尋に言われた時、海の脳裏を支配したのは『瀬尾貢』という名前だった。
『本当の名前は、瀬尾貢だろう? あんな酷い事故でよく生き残ったな。しかも素性をすっかり変えるなんて、なかなか頭がいい。あんな騒ぎがあった後だ。うまいこと第二の人生を手に入れたってことか』
峰石の言ったことが心に引っかかる。
素性を変える。第二の人生を手に入れる。
その台詞が頭に浮かぶ度、鳥肌が立った。
田舎の父親に電話をかけ、瀬尾貢について聞いてみたが、「そんな名前は聞いたことがない」とあっさり言われ、「俺、父ちゃんの子だよね」と訊くと、「何をバカなことを訊いてるんだ」といつもの明るい口調で笑い飛ばされた。
その電話で一時の不安を解消したものの、よくよく考えてみると、あの交通事故に 合う以前の家族写真を自分は見た記憶がないことに海は気づいた。写真好きの父親ではなかったが、家族で撮った写真が全くないということは不自然だった。現に海が退院してからの写真は、今も田舎の家の古くさい本棚の一番上にあるはずだ。それなのに、中学に上がる以前の写真を見たことがないなんて。まして海は一人っ子である。初めての子どもが誕生してからすくすくと育っていく様子を写真に一枚もおさめない親がどこにいるだろうか。
それでも、そんな不安を身体の奥底に押しやり、海は自分の財布にしまってある母親の写真を眺めた。
この大らかな笑顔が美しい海の母は、医者からもう決してよくなることがないと言われた腎臓を抱え、長い闘病生活を送った末、去年の春、ポスターの仕事が決まった直後に安心するように息を引き取った。
海がこんなに純粋で真っ直ぐな瞳を持つように育ってきたのも、恐らく母親の大らかな性格のお陰だろうと母の死後、父はそう言った。
あの酷い交通事故の後、著しい記憶障害と一生残る身体の傷に落ち込んだ息子を激しく叱咤し励ましたものこの母だった。
やがて病院関係者らが舌を巻くほどの回復力を見せ退院した息子を、新しく引っ越しをした土地で母は「私の自慢の可愛い息子です」と近所中に言って回った。彼女は、海に対する愛情を決して隠しはしなかったし、常に正々堂々と息子と向き合った。
だから、事故以前の記憶が取り戻せなかったにせよ、母さえいれば何の不安もなかったのだ。彼女の愛は、母が子に無条件に捧げる絶対的な愛情に他ならなかったのだから。
それが今揺らぎ始めている。
臨終間際、何か言いたげで結局何も言えずに死んでいった母のあの瞳が気にかかる。しかしそれも、あんなに惚れ抜いて一緒になった母に先に逝かれ、すっかり落胆してしまった父を気遣ううち、すっかり忘れてしまっていた。
それが今頃になって、こんなに気になるだなんて。
誰なんだ、瀬尾貢って。── そして俺は、一体何者なんだ。
その問題と向き合うには、まだ勇気が足りなかった。
尋は、この一ヶ月あまりの間、病院とまりあの実家を往復する生活を送っていた。 あの雨の日、後を追いかける尋の目の前で、まりあは走ってくる車の前に身を投げ出した。
幸いまりあを跳ねた車はさほどスピードが出ておらず、腕や足に擦傷を負ったほか、右足を骨折しただけですみ、命には別状がなかった。
まりあが収容された救急病院で、尋はまりあの家族と対面した。
まりあの父親は依然尋に対して怒り心頭の様子だったが、自分のしたことがこれほどまでに自分の娘を追いつめていたことに対して大きなショックを受けていた。
その他、まりあの母親や姉は、娘を病院に運んでくれた尋に感謝し、ことの経緯を誠実に語る尋に理解を示してくれた。
事故の翌日には気を取り戻したまりあだったが、情緒不安定なことには変わりなく、尋の姿が視界からいなくなると、途端に暴れ始めた。
これには、病院側もまりあの家族も閉口し、まりあが落ちつくまでは側にいてやってほしいと尋は周りから懇願された。
結局、まりあが退院をした後も尋が解放されることはなく、まりあを病院に連れていったり風呂にいれてやったりと、今度は尋がまりあの身の回りの世話を行うことになった。
その間にも、尋は海のことが気がかりで海の自宅に何度も電話をしたが、いつかけても留守で、まりあの家の近所にあるコンビニで、まりあの家の電話番号を書き記したメモをファックスで送った。それでも電話が来る様子がなかったのでまさかと思い、昼間まりあが病院で検査を受けている間に自分の部屋に電話をかけてみたが、留守電になっていた。
不運なことに尋が電話をかけられるチャンスは少なく、まりあやまりあの家族の目を盗んで電話をかけてはみるものの、そのラインが繋がることはなかった。
広大な庭を持つまりあの家でもセミの鳴く声が聞こえ始め、篭の中の鳥になった尋の日常は、今や白井家の生活の一部に完全に飲み込まれていた。
見かけに寄らず賢明に娘を看病する尋を見て、厳格なまりあの父親もいつしか尋に対する態度を緩め、晩酌につき合ってくれと言われるほどになった。
まりあの父親はカッとなるとすぐ暴力を奮う質らしく、彼自身そのことを悔やんでいた。
今までギクシャクした家族関係の中に全く赤の他人の尋が加わることで、彼らの関係も少しずつ変化していったらしい。まりあの発作が起きる時以外は、比較的穏やかな日々が過ぎて行った。
しかし、自分には帰るべきところがある。
尋の頭から片時も海の姿が消えることはなかった。
ようやくまりあが寝付いたのを確認して、尋は一階のダイニングキッチンに向かった。
ダイニングキッチンと言っても、20畳はありそうな広い部屋である。
しかしここでは、朝食や間食など、簡単な食事をとることはあっても家族四人が揃ってテーブルにつくことはなく、家族揃ってとる夕食などは、この部屋の他に正式なダイニングルームが用意されていた。
尋は、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すと、側のグラスにそれを注ぎ、一気にそれを飲み干した。空になったグラスに再度水を注ぎ、チーク材でできた椅子に腰掛ける。
流石に疲労は隠せず、尋はテーブルの上に両肘をついて頭を支え溜息をついた。
月の青白い光に照らされたダイニングキッチンは、ささやかな夏虫の鳴く音が密やかに響くだけでとても静かだった。
ふいに尋は、背後に気配を感じ振り返る。
まりあの姉、さゆりだった。
彼女はまりあと年が離れた姉で、確か尋より3つ年上の筈である。一度結婚したが失敗して戻ってきたと話していた。痩せた身体をしていて、まりあには似ていなかった。
「お疲れのようね」
さゆりは尋の向かいに腰掛けるとそう言った。だが、すぐに自分の発言を不謹慎だと感じたらしく、「ごめんなさい」と謝った。
「本当なら、私たちがしなければならないことを全てあなたがしてくれているんですもの。こんなことを言う資格はありませんよね」
「いえ、そんな」
尋はそう返して、グラスの水を半分飲んだ。さゆりが、そのグラスに水を継ぎ足す。
「後2、3日もすれば、妹のギプスは外れます。その後、家族水入らずで旅行に行こうと思っているの。まりあが薬でよく寝ている間に迎えの車に乗せて行こうと思うのよ。目が覚めたら異国の国だったなんて、おもしろいでしょ。来月はまりあの誕生日だし。いいプレゼントになるわ」
静かにさゆりがそう言う。
尋はその話の真意が今一つ分からず、訝しげにさゆりを見た。
さゆりはそんな尋の顔を見て、僅かに笑う。
「その間に、ここを出て行きなさいと言っているんです。妹に対して、どれほどの罪の意識を持たれているか私には推し量ることはできないけれど、あなたはもう充分に罪を償っている筈よ。これ以上ここにいると、あなたはこの世界から抜け出せなくなる。うちの父は執着心の塊なの。そのお陰で皆苦労しているわ。このままだとあなたに対する雲行きも怪しいと私は思っています。あなたはお金を受け取ってはくれないし、それ以外のお礼をする術を私たちは持っていないから、あなたには何もしてあげられないけど・・・。待っている人がいるんでしょ。早くその人のところに帰ってあげて」
さゆりはこう言って、目に見えない鳥かごの柵を押し上げたのだった。
尋はギュッとグラスを握りしめ、「ありがとうございます」と静かに言った。
その様子をダイニングキッチンの入口で息を殺して見つめている影があることを、二人が気づくことはなかった。
その小包が尋の部屋に届いた時、丁度海は、留守番電話のテープと格闘していたところだった。
極度の電子機器音痴の海は、尋の電話の留守電機能を完全におしゃかにしてしまっていた。テープには何かしらのメッセージが入っていたようだが、テープがこんがらがって痛んでしまった今、それを聞くことは永遠に不可能になってしまっていることは明らかだった。
「あ~あ・・・。こりゃ尋に怒られんなぁ・・・」
海が半べそをかいた時、玄関のチャイムが鳴らされた。のぞき窓を覗くと、緑のユニフォームを着た宅急便の配達人だった。
「受け取りのサインをお願いします」
そう言われて海はサインをしながら、その宛名が辻村づけ小笠原海となっていることに気が付いた。
海は、両手で抱えるほどの横幅がある厚みの薄いその包みを怪訝そうに見つめた。
海が尋のマンションに居ることは、ごく僅かな人間しか知らないことだ。久住と京子、それに実家の父。それ以外に思い当たる人物はいなかった。
「── なんだろ」
海は、梱包されているビニールヒモを切り、上蓋を開けた。
途端に血の気が引く。
中には、刃物でずたずたに切り裂かれた絵があった。その絵の状態は、海辺に黒い犬が佇んでいる絵だということが辛うじて分かるほどの酷い有り様だった。
海の口の中に苦い唾液が広がる。これは明らかにまりあからの贈り物だということが分かった。
絵を取り出すと、また別の紙がひらりと床に落ちた。
それは、古い新聞の切り抜きだった。
“高速道路で、バスと普通乗用車が正面衝突。バス・乗用車とも炎上。死者四名、重軽傷者二五名”
その記事についてある写真は、丸焦げになった普通乗用車と運転席が焼け焦げているバスの写真で、その下には死亡者の写真が並んでいる。
上から3番目。
紛れもなく、自分の顔だった。
顔の下には、こう書かれてある。『瀬尾貢さん(14)』。
震える手でその記事を拾い上げると、その裏に書かれてある赤い文字が透けて見えた。震える手で裏返す。
恐らく、細身の口紅か何かで書かれた文字は、雄弁にこう語っていた。
『あんたはしょせん、この子のみがわりなのよ!!』
海の視界がぐらぐらと揺れた。
いつかのあの海(うみ)での尋の話が走馬燈のように浮かんでは消えた。
尋に想いを告げることができなくて教師と身体を重ねた少年。
それを聞いて吐き気をもよおした尋。
大々的に騒がれたスキャンダル。
自殺と疑われた交通事故。
そして、あの言葉。
「お前なんか、生まれてこなきゃよかったのに」
すぐ耳元で、尋の声が聞こえたような気がした。
海は思わず両耳を覆う。
全身からは滝のような汗が流れ落ち、呼吸がうまくできなかった。頭はハンマーに何度も殴られるようにガンガン痛み、あまりの気分の悪さに胃の中のものを床にぶちまけた。内蔵がぴくぴくと痙攣しているのが分かる。身体中を大きな嵐が吹き荒れていた。
床に蹲り、海は大声を上げた。自分でも聞いたことのない様な、すさまじい絶叫だった。
しかしふいに、その嵐が止んだ。突如、海の中で渦巻いていた靄が、きれいさっぱりなくなった。
その瞬間、小笠原海は全てを思い出した。自分が“瀬尾貢”と呼ばれていた頃の記憶を全部。
神様の住む国 act.11 end.
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編集後記
またも皆さんの内臓を刺激するようなところで終わってしまいました・・・。ごめんなさい。この茨の道を地で行くようなお話も、残すところ後2回(多分)。なんだかんだ言って、これもまた終わってみれば大問題な話になりそうですね・・・。国沢の書く話って、つくづくって思います。内臓、大変かと思いますが、決して日本海溝のままでは終わりませんので! 夜は永遠に続かないし、人間どんなに辛くても、ずっと落ち込み続けることはまずない!! このお話だってそうなのさ!(ホントよ)
[国沢]
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