act.13
「あら、なぁに? 新しいお仕事?」
真一が、漆黒色のウール生地に霧吹きを念入りにかけているのを見て、母親が訊いた。
彼の息子は、白く美しい顔を上げて、はにかむように微笑んだ。
「ああ。ちょっと」
「そう。小池さんのはもう済んだの?」
母親は店の床を箒で静かに掃きながら、テーブルの上に出されっぱなしのカタログを本棚に返した。
「小池さんのダブルはもうとっくの昔に納品してきたよ。長畑さんのも」
母親は目を丸くする。
「もう? いつもより早いじゃないの。そんなに急いでどうするの」
「今のうちにたくさん仕事しなきゃ」
思わず口をついて出た息子の言葉に、母の手が止まった。
母はじっと息子を見つめている。
「 ── どういう意味なの?」
「嫌だな、母さん。変な顔をして・・・」
真一は笑って誤魔化そうとしたが、母の目は欺けなかった。
しばらくお互いに見つめあう。
やがて真一は観念したように溜息をついた。
真一は霧吹きを置くと、母の手から箒を取って静かに床に置く。
眉間に皺を寄せる母の両手をとって、ソファーに腰掛けさせると、その向かいに跪いた。
「母さんだけには、ちゃんと言っておくね」
母親の目が、恐怖にうち震えるように見開かれる。真一はその瞳に映る自分の姿を見つめながら静かに言った。
「耕造さんが日本を発ったら、僕は病院に入院する」
ひっという短い吐息が母の口から零れ出た。
母の口が戦慄き、その目にはみるみる涙が湧きあがってきて流れ落ちた。
「大丈夫だよ、母さん。絶対ダメだってことはないから」
母はまるで子供のように泣きじゃくると、首を横に振った。息子のその言葉が意味をなさないことを母は知っていた。
「なんてことなの・・・、なんてこと・・・」
嗚咽に濡れた声。
「しっかりして、母さん。母さんが支えてくれないと・・・」
真一の声もまた濡れていた。母は、真一の両肩を乱暴に掴んで揺さぶった。
「あなた、何してるの?! 羽柴さんについて行きなさい! 一緒に行きなさい!!」
「ダメだよ、母さん・・・。それはダメだ・・・」
真一は袖口で自分の涙を拭いながら、吐き捨てるように言った。
「あの人に、看病はさせられない。これから輝かしい未来が待ってるあの人に、そんな酷いこと、させられない・・・」
「何言ってるの?! 羽柴さんなら、分かってくれるでしょう?!」
「分かってくれるから! あの人の人生をすべて僕に捧げてくれると分かってるから言ってるんです! この病気の最期がどんなになるか、淑子の時を見ていて分かるでしょう?! 僕は最期までとても見ていられなかった。あんなに美しかった淑子が・・・、あんな・・・。それでも、血の滲むような思いで僕は看病した。僕も最期はこうなるんだって思いながら! あんな思いは、させたくない。誰にも、もうさせたくない。愛しているのに・・・、あんな思いは・・・」
母の嗚咽が一際大きくなる。母は、何度も何度も力の入らない拳で息子の胸を叩いた。
「どうしてよ・・・。どうして病気なんかになっちゃったのよ・・・」
「ごめんよ。ごめんよ、母さん。母さんにまた辛い思いをさせて、ごめん・・・」
息子は、いつまでも母の拳を黙って受け止めるのだった。
羽柴の海外赴任を2日後に迎えたある日、会社の有志が集って“羽柴の成功を祈る会”が行われた。まるで、悪いことでも起こりそうな感じのタイトルだと苦笑いした羽柴だが、アナリスト部以外でも多くの人間が羽柴のために集まってくれたことを羽柴は感謝した。
居酒屋一軒を完全に貸切にし、ひとしきり飲んで騒いで、いつしか会は、本筋からそれただの飲み会のようになってしまったが、久々のドンちゃん騒ぎに、羽柴も大いに楽しんだ。
「お前、随分変わったよ」
騒ぎの輪から外れ、店の片隅に小休止しにきた羽柴を捕まえ、稲垣がそう言った。
「結婚が近いのか?」
稲垣がそう突っ込むと、一瞬羽柴の表情がなくなったが、すぐににっこりと笑った。
「結婚したい人はいます」
やっぱりと思いながら、稲垣は羽柴の目前のお猪口に熱燗を注いだ。
「もうぬるくなってるが・・・」
「いただきます」
羽柴がぐっと飲み干す。
「どうだ。もう決まっている人がいるんなら、 届けだけでも出しておけばどうだ。式は向こうに行ってから挙げてもいい。ハネムーンも兼ねれるから、いいじゃないか」
羽柴の返杯を受けながら、稲垣は言う。羽柴は「ハハハ」と声に出して笑った。
「結婚はできんのですよ」
その発言に稲垣はぎょっとする。
「お前まさか、不倫なのか」
「まさか」
羽柴はまた笑った。懐をごそごそと探る。
「これが俺の恋人です」
羽柴はそう言って財布を取り出すと、稲垣の前にそれを広げて見せた。稲垣は、財布に挟まれたその写真を穴があくほど見つめた。
「えらく男っぽく見えるな」
「男ですよ」
稲垣は言葉を失って、今度は羽柴の顔をマジマジと見つめた。
「だから結婚はできんのです。本当はしたいんですけど。許されるなら」
「羽柴、お前自分で言ってること分かってるか?」
「ええ。法改正でもされたら、一番に結婚します」
稲垣は手近のコップに熱燗を注ぐと、一気にそれを飲み干した。
「この前、柏崎がお前の彼女を見たって・・・」
「あの人とは別れたんですよ」
「別れたって、羽柴、お前は女の方が好きなんじゃないのか?」
「ええ。今でもそうです」
「じゃ・・・」
「でも、結婚したいのはこいつなんです。本気なんですよ」
羽柴の目を見て、稲垣は確かに本気なのだということを悟った。痛いほど澄み切った羽柴の瞳は、真実を映していた。
「正直、今の法律制度を恨みます。これまでは、結婚なんて紙や財産上での契約とだけしか思ってなかったんです。稲垣さんも、以前そんなこと言ってたでしょう?」
「あ、ああ」
「でも今は、そんな紙の上での契約でさえ、羨ましい。こいつを俺に縛り付けれるものなら、紙切れ一枚だろうが、三々九度だろうが、何だっていいと思う。俺達は、形のないものだけで繋がりを確かめなくてはならない。それが歯がゆいんです」
その思いをかみ締めるように、羽柴がふいに黙り込んで俯いた。
稲垣は、一瞬羽柴が泣き出すのではないかと思った。だが、羽柴が次に見せた表情は笑顔だった。
「驚いたでしょ」
「あ、ああ・・・」
「やっぱまずいですか、こういうのは」
「いや・・なんと言っていいか・・・」
稲垣は、ひとつ深呼吸をする。
「お前を変えたのは、この青年なんだな?」
稲垣は、羽柴の財布を取り上げ、もう一度写真を見つめた。
優しげな笑顔。ひどく儚げな。
「お前はここ最近、本当に成長した。海外赴任がこんなに早く纏まったのも、お前の頑張りのせいだ。 ── そうか、お前には本当に守りたいと思える人ができたんだな。守るものができた男は強くなれる・・・」
数ヶ月前から妻や子供と別居している自分のことを思いながら、稲垣は呟いた。
「はい」と答える羽柴の潔さが眩しかった。
その晩、案の定羽柴は、夜遅く帰ってきた。
ベッドから起き上がった真一に、「寝てていいよ」と意外にしっかりした声で羽柴がそう言うと、風呂場に消えて行った。
しばらくしてベッドの隣に入ってきた羽柴が、真一の身体を後ろから抱き締めた。まだ少し酒の匂いがした。
パジャマの裾から腹部に進入してくる羽柴の熱い手を感じ、真一は身体の向きを変える。
羽柴の充血した瞳を見つめながら、真一はパジャマのボタンを外そうとした。その手を見つめていた羽柴は、何を思ったのか、優しく掴んで手の動きを止めた。
「?」
不思議に思い、真一は羽柴を見つめる。
羽柴は、真一の手に自分の額を擦りつけると、掠れた声で言った。
「頼む。明日、淑子さんの墓に俺を連れて行ってくれないか」
躊躇いをみせた真一に、羽柴は何度も行った。「淑子さんに会わせてくれ」と。
須賀淑子の墓は、浅草にある須賀家の菩提寺にあった。
真一の父が入っている墓より少し離れた墓地の片隅に、その真新しい墓はあった。
真一は墓の前にしゃがむと、しおれたチューリップを取って、新しい花をいけた。その間に羽柴は、墓に深々と一礼すると、墓に清水をかけて僅かな汚れを新しいタオルで拭き取った。丁寧に。
線香をあげ終わって二人は並んで立つと、真一は淑子に羽柴を紹介した。
「こちら、羽柴耕造さん。今僕の人生を支えてくれている人です」
羽柴は唇を噛み締め、また頭を下げた。
「初めまして、羽柴です。ぜひ、あなたの前で誓わせてもらいたいことがあって、今日ここに来ました」
真一が、羽柴を怪訝そうに見つめる。
羽柴も真一を見つめると、その手を取ってぎゅっと握り締めた。その手を墓の前に翳す。
「私、羽柴耕造は、須賀真一を、死が二人を別つまで愛し続けることを誓います」
「耕造さん・・・」
真一の目が見開かれた。羽柴が、にっこりと笑う。
「今日が俺達の結婚式だ」
真一の目から、涙が零れる。
だが真一は笑顔を浮かべた。
真一は涙を拭い、洟を啜ると、淑子の墓に向き合った。
「私、須賀真一は、羽柴耕造を、死が二人を別つとも、愛し続けると誓います」
それを聞いて、羽柴が「あ!」と声を上げる。
「そうか、そっちの方がより強い誓いになるな」
もう一度誓いの言葉を口にしようとする羽柴を阻むように、真一は羽柴に抱きついた。
「 ── 真一?」
「僕の心は、あなたのものです・・・。一生、あなたのものです・・・」
羽柴の耳元で、真一が囁く。
羽柴は夢中で真一を抱き締めた。
誓いのキスをすることも忘れて、ただひたすら真一を抱き締め続けた。
Nothing to lose act.13 end.
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編集後記
この13話目は、私的に書いていて一番辛かった回です。自分はなぜか真一の母に感情移入してしまって、さすがに書きながら泣いちゃったことを思い出します。
真一が淑子の最後を看取った話が出てきましたが、私は以前、NHKのドキュメントで、エイズにかかった自分と看病する恋人(同性愛者)を、自分の死を含めて映像に収め続けた映像作家の番組を見たことがあります。確か「ユー アー マイ サンシャイン」っていうタイトルだったと思いますが。
それは随分昔の話で、エイズという病気が興味本位に騒がれた時代だったと思いますが、今でもその最後のシーンが忘れられません。番組的には、人の死が近づく様がたんたんと映し出されている訳ですから、衝撃的にはちがいなかったのですが、すごく穏やかで静かだったことを思い出します。一番印象的だったのは、やはりその死の瞬間で、やせ細って息をしなくなった恋人(映像作家)を抱きしめ、恋人が泣きながら
「ユー アー マイ サンシャイン」というシーンでした。今こうして書いていても、涙が出てきます。献身的に彼の看病をしてきた恋人もまたHIVキャリアで、いずれは自分もこうなってしまうだろうという恐怖を予見しながらも、彼は決して逃げなかった。真一は、羽柴にそうさせない道を選んだけれど、世の中には、いろんな愛し方があるんだと思います。
[国沢]
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