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nothing to lose title

act.04

 真一が縁側の雨戸を開けると、朝の清々しい光で室内が満たされた。
 寒いことは分かっていたが、戸を開けたままにして、新鮮な空気を肺の中に思い切り吸い込んだ。都会の空気は汚れているとは言え、早朝の空気はまだマシだ。
 夕べの睡眠時間はいつもより短かったが、よく眠れた。おそらく、隼人に会ったせいだろう。たまのセックスも身体にはいい。
 そう言えば、セックスが身体の免疫力を高めるって話を聞いたことがあるな。
 真一はそんなことを思って、ハハハと笑った。
 戸を閉めて、部屋の片隅にある小さな仏壇の扉を開ける。優しげな微笑を浮かべる若い女性の写真が現れる。典型的な美人じゃないが、女性らしい慎ましやかさがある。
 一年前に他界した真一の妻、淑子である。
 真一に出会うまでは散々な人生を送っていた彼女だったが、最後は穏やかに旅立って行った。
 仏壇の前の小さなテーブルには、夕べ買ったチューリップがいけられてある。黄色のチューリップは、淑子が好んだ花だ。死の床にも、それは今と同じように飾られてあった。
 朝早いからと鐘は鳴らさず、線香に火をつけたところで、廊下側のガラス戸が開いた。母だった。
「母さん。おはよう」
 母親は、仏壇の前に座る息子の姿を見て、顔を曇らせた。「おはよう」と小さく返して、台所に消えていった。
 彼の母は、未だに淑子の仏壇の前に座ったことがない。真一の父親の仏壇も、別に構えられて、母の部屋にある。真一の母親は、息子の嫁を今も許していなかった。彼女の大切な息子に、病気という置き土産をしていった女を。
 それでも、真一には掛け替えのない女性だった。生まれつき同性にしか興味を持てなかった真一が愛した、唯一の女性である。
 確かに、最初は同情から生まれた感情だった。男に騙され、社会的にも肉体的にも精神的にもボロボロだった彼女を、放っておくことができなかった。いつしかそれは愛に代わり、結婚をし、一度だけ身体を重ねた。その結果  今に至っている訳だが、真一は淑子を恨んではいない。むしろ彼女も犠牲者だった。
 今では、真一の身体の中に眠っているいくつかの細胞が、皮肉にも彼女がこの世に生きていた証にもなっているのだった。

 三日後、真一は当初の納品予定日にようやく間に合わせた子供用のシャツを、新宿に本社を置いている貿易会社の社長室まで直接届けた。
 父の代から須賀テーラー店を愛好している社長は、孫への誕生日プレゼントの見事な出来栄えにいたく喜んだ。結局、先代の思い出話にも付き合って、会社を後にするころにはもう、多くの会社の退社時間と重なってしまった。
 真一は、人ごみがあまり得意ではない。ラッシュを避けようと、駅とは反対方向に向かって歩いた。もう少し行くと、日頃よく利用している書店の本店ビルが姿を表す。彼は、迷わず店内に足を進めた。
 真一は本が好きで、特に装丁が凝っている本などは内容も確認せず、即購入することもあるほどだった。彼の本好きは、活字好きというよりは、本の作り自体に好奇心をそそられるといった類のものだ。本以外でも、自分自身手を使う職人柄なのか、細部まで神経が行き届いたハンドメイド製品に強く引かれた。
 しかし、その日の真一は、普段よく行くハードカバーの新刊コーナーやファッション雑誌のコーナーをやりすごし、経済書が陳列してあるコーナーへと足を進めたのだった。
 月に何度も本屋通いをするくせに、このようなコーナーに入るのは初めてだった。 ミクロやらマクロやら、さっぱり分からないタイトルが並ぶ中、証券アナリストという文字が見え、それを手に取るとどうやら資格試験のテキストブックであった。
 ほとんど内容が分からない専門的な質問が並ぶ。おそらく、羽柴もこのようなテキストを学んでから後、資格試験に挑んだのだろう。大学を卒業してなお、試験を受けるなんてゾッとしない話だが、大人になってからもそんな情熱を傾ける何かがあることは正直羨ましかった。
 真一とて、今の仕事に情熱がない訳ではない。やりがいも感じている。でも、試験とか試合というものは一種独特のものだ。その一戦から離れた位置に立つと、なぜかその時の緊張感をまた味わいたくなる。
 きっと、あの人は毎日そんな緊張感の中で戦っているんだ。 戦う。羽柴に妙に似合う言葉だった。世が世なら、武将といってもおかしくない面構えをしている。今時珍しいタイプの「色男」だ。きっと女性にもよくモテるだろう。
 真一は、物語調になったあるトレーダーの栄光と挫折を扱った本を購入した。
 書店を出て腕時計を見ても、まだラッシュ時に重なるような時間帯だった。
 もう少し時間を潰していこうかな・・・。
 真一は、近くにあるテナントビルに入った。このビルは主に飲食店が入っている真新しいビルで、最近女性誌にもよく取り上げられるようなレストランやケーキ店が軒を連ねていた。
 真一の目当ては、一ヶ月前から発見した甘味処の店である。先ほどシャツを届けられた時に出されたケーキが少々しつこかったので、抹茶でも飲んでさっぱりしようというのが真一の魂胆だった。買ったばかりの本にも、少し目を通したいし。
 吹き抜けになったビルのエントランスゾーンに足を踏み入れて真一は、「あ!」と思わず叫んでしまった。
 その声に、真正面の小さな噴水の傍らで佇んでいた男が振り返る。
「あれ? 須賀君じゃないか」
 羽柴に初めて名前を呼ばれ、真一はふいに息苦しさを感じる。だが、努めて普段の自分を取り繕うと、「奇遇ですね」と声をかけた。
「待ち合わせですか?」
「そうなんだ」
 二人して噴水の傍らに腰掛けて、微笑み合う。
「強引に呼び出されちまってね。君の方こそ、待ち合わせかい?」
「いいえ。仕立て上がった商品をお届けにあがった帰りです。人ごみを避けて歩いていたら、ここに行き着きました」
「そうか。でも、もう三十分したらここも込み出すぞ。近頃はやりのプロヴァンス料理とやらを食うために行列を作り始める。かくゆうこの俺も、それに付き合わされるんだが」
 苦笑いした羽柴が、真一の手にある紙包みに目を留めた。
「本かい?」
「え? ええ」
「須賀君は、どんな本を読むの?」
 紙包みを興味心身で見つめる羽柴に、真一はなぜか袋を身体の後ろに隠した。
「たいしたものではありません。僕もはやりの新刊に手を出したまでのことで。レジに行列しましたよ」
「なんだ、そうなのか」
 似たもの同士だなと言って羽柴は笑う。
 と、羽柴の携帯が鳴った。
「失礼」
 羽柴は立ち上がって少し真一から離れると、携帯電話を耳に押し当てた。
「え? いるよ。言われた通り、噴水の側。お前こそ、どこにいるんだよ」
 彼女からかな。真一はそう思った。
 なんとなく羽柴を眺めるのが悪いような気がして、真一はエントランスホール全体を見回した。噴水の向こう側、前衛作家のオブジェの影に、携帯電話に向かって怒鳴り散らしている若い女が見える。
 目の覚めるようなパープルのパンツスーツをうまく着こなしている。ともすれば下品になりがちな色のスーツをボルドーブラウンの小物で引き締めているところなどを見ると、ファッション関係の仕事をしている女性だということは安易に想像ができた。仕事に生きがいを感じている、いかにも現代の強い女性というプロトタイプがそこにいた。
 その女性と羽柴の様子を伺っていると、どうやらあの女性が羽柴の恋人らしい。
 真一は立ち上がって羽柴に近づくと、背中をトントンと叩いた。
 羽柴が携帯に向かって「いい加減にしろ」と怒鳴りながら真一を見る。真一は、羽柴の腕を少し引っ張って、例の女性が見える位置まで移動させると、何も言わず、ただ指で女性を指し示した。羽柴は照れくさそうに笑い、表情で「ごめん」と謝ると、「噴水のオブジェの向こう側に立ってるよ」と言って電話を切った。
 女性もまた携帯を切って辺りを見回し、羽柴に気がついたらしい。少し頬を膨らませて怒った素振りを見せていたが、目は気恥ずかしそうに笑っていた。そんな様子は、真一にもチャーミングに見えた。
 すぐに噴水の裏手を回ってくる。
「何でお互いに分かんないのかしらね」
「いつものことだろ」
 互いに散々悪態をついた後、羽柴の恋人が真一に目を止めた。
「あら、こちらどなた?」
 数日前に彼女は羽柴の上司に対して同じ台詞を吐いたが、イントネーションはまるで違っていた。どうやら真一は、彼女のお眼鏡に適ったらしい。
 一方、それを聞かれた羽柴は、ばつが悪そうな表情を見せた。
「・・・テーラーの須賀君。こっちは雑誌の編集をしてる、市倉君」
「須賀真一です。羽柴さんのタキシードを今仕立てています」
「初めまして、市倉由香里です。あ、そうなのぉ。この方が噂の仕立て屋さん。ふぅん・・・」
 由香里は、どういう訳か意味ありげな視線を羽柴に送る。羽柴は益々立つ瀬のないような表情を浮かべた。タイミングよく、羽柴の携帯が鳴る。
「悪い。会社からだ。少し待っててくれ」
 これ幸いと、二人から離れて羽柴は電話に出た。聞き取り難いのか、人気のない柱の陰に消えていく。
 真一は、羽柴の姿が見えなくなるまで目で追っていたが、ふいに視線を感じて振り返った。由香里と視線が合う。
 由香里は華やかな微笑を浮かべ、真一に近づいた。
「あなたを捕まえて不細工だなんて、羽柴もどういう目をしてるのかしらね」
「不細工?」
「もちろん、嘘よ。かっこいいだなんて言ったら、私が放っておかないこと知ってるからね、きっと」
「そう・・・なんですか?」
「もちろん、取材対象としてよ」
 アハハと大きな声で由香里は笑った。屈託のない笑い方だ。まったく迷いがない。
 物凄いパワーだ・・・。久しくこんなタイプの人間に出会ったことがない真一は、ただただ圧倒され通しだった。
 それまで豪快に笑っていた由香里が、不意に真一の姿をまじまじと眺めて、「でも・・・」と声を潜めた。
「あなたなら、取材抜きでっていうのも、ありかもね」
 言っていることがよく聞き取れず、顔を近づけた真一の耳元にそう呟いて、由香里が真一の唇をさっと奪った。
 驚いた真一が弾かれたように由香里から離れたと同時に、羽柴の「待たせたな」という声が聞こえてきた。
 真一は驚いた顔のまま羽柴を見たが、羽柴はいつもと同じ超然とした佇まいで、歩いてきた。どうやらさっきの事件は見ていなかったらしい。由香里も堂々としたもので、「遅いわよ」と羽柴の肩を叩いた。
 ここで動揺しているのは、真一だけである。
「じゃ、須賀君。また今度店に行くよ。フィッティングもうすぐだって、言ってただろ」
「え、あ、はい」
「また連絡くれよ。さ、行くぞ」
「はい、はい」
 由香里が羽柴の腕に自分の腕を絡ませる。それを見て、なんだか真一は頭に血が上った。「じゃ、よろしく」と手を振る羽柴に何も答えられないくらいに、だ。
 何も言えずにいる真一に、エスカレーターに乗った由香里が羽柴の目を盗むように振り返り、ウインクをした。
 なぜだか真一は、身体の震えが止まらなかった。

 羽柴は、窓の外を眺め続けていた。一見ぼんやりと眺めているような顔つきだったが、その実視線は活発に下の歩道を行き交っていた。
「ちょっと! 料理冷めちゃうわよ!」
 テーブルの下で足を蹴られ、羽柴は「ん?」と由香里に向き直った。
「誰か探してるの?」
 由香里にそう言われ、羽柴ははっとした。そうか、今まで自分はやっぱり人を探していたのか。
 自分が探していたはずの人物の顔を思い浮かべ、何となく羽柴は納得する。
 先ほどの別れ際。複雑な表情を彼は浮かべていた。素直に見れば驚いたような、もう少し想像を膨らませると、泣き出してしまいそうな。
 普段の笑顔が朗らかなだけに、正直彼のあの表情は、羽柴の胸に少し堪えた。
 偶然とは言え、彼には酷だっただろうか。由香里と会わせて。
 羽柴は、まじまじと由香里を見た。
 由香里は、責めるような目で羽柴を見つめながら、レアに仕上げた肉を口に運んでいる。
 自分でも不思議だった。
 実は先ほどの由香里と須賀のキスを羽柴は見ていた。そして一番先に思ったのが、「早く由香里と須賀を放さなければ」、ということだった。そうしないと、須賀が汚されていくような気がして。
 羽柴には、須賀が女と抱き合うようなイメージを持てなかった。あれほどの端正な顔とあの暖かな性格から考えると、当然幸せな結婚生活を送っているはずなのだから(今でも、彼の指で輝いていた金の指輪が頭から離れない)、それなりに週何回かはセックスをしているのだろうが、まるで想像ができなかった。生活感がない訳ではない。だが須賀が、先ほどのように他人と肌を合わせるのは抵抗を感じる。いや、嫌悪と言った方が正しいのか。
 しかし、それにしても、なぜ由香里に対しては何も感じないのだろう。須賀への嫉妬とか、浮気されるのではないかという不安とか、そう言ったものを何も感じない。むしろ、あんなにいい加減に須賀に触れたことの方が腹立たしい。
 今まで、我儘さ加減がかわいいと思っていたのだが。
「食べないのなら、アタシがもらうから」
 自分がせっかく計画したプランにのってこない羽柴に業を煮やしたのか、羽柴の皿の肉をフォークで突き刺す由香里を見て、羽柴は思った。
 なんで俺は、ここにこうして居るんだろう、と。

 その数分後、羽柴は一階フロアに到着したエレベーターボックスから、飛び出した。 辺りを見回しながら噴水の周りを一周し、両膝に両手をついて、頭を項垂れた。
 別にダッシュをした訳ではなかったが、羽柴の呼吸は荒れていた。
「・・・くそ・・・。いるわきゃないか・・・」
 羽柴は吐き捨てるようにそう呟くと、身体を起こして、噴水の中の奇妙な形の前衛彫刻を見上げた。
 多分由香里にとっちゃ、さっきの俺はこいつみたいに見えてたんだろうな。あ、さっきレストラン出た段階で、由香里じゃなくて市倉さんか。
 そう思った途端、自然に笑い声が口を突いて出た。抑えようと思ったが、抑えられなかった。周囲が怪訝な視線を送っていることは十分分かっていたが、羽柴は大声を上げて笑い続けたのだった。

 羽柴が由香里に別れを告げた頃、真一はとあるバーに顔を出していた。 バー「ブラック・アンド・ホワイト」は、新宿二丁目の真中辺り、雑居ビルの一階にある。
 あんなに人ごみを避けていた自分が嘘のように、下世話なこの界隈に足を踏み入れたのは、実に四ヶ月振りだった。
「お、真一じゃないか! 久しぶり」
 若いがオーナーでもあるこの店のマスターの矢嶋が、カウンターの向こうから声を上げる。それを聞いて、こんな早い時間から奥のボックス席に陣取っていた常連組が黄色い声を上げる。
「え! 真ちゃん、来たの? わぁ、本当だ!」
 真一は頬を赤らめながら軽く会釈すると、カウンター席に座った。
 ボックス席の客の一人が、真一の背中により掛かる。
「ねぇ、向こうで一緒に飲まない?」
  お世辞にも美しいとは言いがたいおかまの桜子である。もちろん、本名は「桜子」なんかではないが。だが、この店では自分がどんな名前を名乗ろうと自由だし、それ以上詮索することはない。二丁目には様々な種類の店があるが、オープンな性格の矢嶋の気質もあってか、どんな種類の人間が来ても矢嶋は追い返したりしない主義だった。したがって、レズビアンの女性も来る。
 矢嶋は真一の様子を察したのか、「駄目だよ、桜子。真ちゃんは今日俺に話があって来たんだから」と言ってくれた。とっさの矢嶋の機転だったのだが、それは当たらずも遠からず、といったところだった。
「ん、もう! 真ちゃんったら、いつもマスターや隼人が独り占めしちゃうんだもの! 別にセックスできなくったっていいのよ! 真ちゃんは側に居てくれるだけで和むんだから」
「桜子がなごんだって、真一が怯えるんだから駄目だよ。ヒゲ、また伸びてきてるぞ」
 桜子は「やだ!」と奇声を発して、洗面所に向かって行った。「ホルモン注射、ちっとも効かないじゃないの、あのヘボ医者!」と悪態をつきながら。
「すみません、矢嶋さん」
「別に、あやまったって何もでないぞ。何にする?」
「あ、ビール」
 真一の前によく冷えた小さなグラスが置かれる。矢嶋は手馴れた手つきでビールを注ぎ、突き出しを出した。甘辛く煮付けたレバーである。真一は何だかおかしくなって、少し笑った。矢嶋がグラスを拭きながら、チラリと真一を見る。
「レバー身体にいいんだぞ。すきっ腹に否応なく酒を流し込もうとたくらんでいる奴には、特に必要だ」
 さりげなく真一の身体を気遣ってくれる。ここの店の連中は、真一の病気のことはよく知っていた。もともと真一がここを訪れるようになったのも、妻の死と病気の感染に身も心のボロボロになっていたところを矢嶋に拾われてからだ。正確には、悪酔いして公園でぶっ倒れているところを救われたのだが。
 隼人との出会いも、この店でだった。矢嶋が同じ病気の仲間を持つ方がいいと言ってくれたことがきっかけだった。この店を訪れる回数はそんなに多くはなかったが、来る度に皆、真一を常連客のように迎えてくれる。いつもは母や近所の子供の面倒を見ている真一が、ここでは完全に面倒を見られていた。まるで、末っ子のように。
「どうしたの? なんかあった?」
 矢嶋は、全身タイトな黒ずくめの服を着ている。年は真一とそう変わらないはずだが、ずっと大人びていた。へたしたら、羽柴より年上のように見える。若い時はショウビズの世界にいただけあって、非常に華がある人物だ。乱暴に吹かす咥え煙草が様になっている。
「別に、何も」
 真一が答えると、「ウソツキめ」と笑ったが、それ以上深追いはしてこなかった。
「矢嶋さん、何か話してくれませんか。何でもいい。他愛のないこと」
「他愛のないこと? 俺の人生自体が他愛のないことだからなぁ・・・」
 煙草の灰を流しの三角コーナーに落とし、矢嶋は目を細める。
「そうだ。この間、弘一と駆け落ちしたサラリーマンがさぁ・・・・」
 本当に他愛のない話に、真一は盛んに笑い声を上げた。

 その一時間後、真一はカウンターに突っ伏して眠り込んでいた。元々酒が余り強くないところに、すきっ腹で飲んだことがきいている。だが、気分が悪そうな様子はなく、疲れ果てた子供が眠り込んでいるような感じであった。
 だが、店内は静かな真一と比べ、大騒動になっていた。
 三十分ほど前に来た客が、常連組に絡んでいたのだ。男女揃えて六人で現れた客は、最初はおとなしく飲んでいたのだが、酒が進むにつれ、大きな声で話し始めたのだった。「しかし、こんな世界があるなんて未だに信じられない」とか「俺だったら、ちょっとキモイな」などなど。いわゆる怖いもの見たさの冷やかし客だ。比較的解放されている店には、時々こういう客も来る。
「前にナンパした奴がさぁ、すっごく美人でぇ、いざやっちゃおうって段階になって、あそこにナニがついてた訳よぉ! いくらきれいでも、おかまはなぁ! だって、ついてんだぜ、俺より立派なモノがさぁ! どう思う? これぇ」
 その台詞にまず桜子が切れた。
「ちょっと! そのオツムの悪そうな口を閉じてくれない!」
「なにぃ? お前なんかに言われる筋合いはないね、この汚いおかま!」
 矢嶋が二日酔いの薬を買いに出ている隙に、ことは収まらないところまで発展していた。
 店の扉を開けた矢嶋は、流石に顔色を青くした。
 殴られたのか、床に倒れこんでいる桜子の鼻から血が流れていた。
「ちょっと痛いわね!」
 桜子を殴った若い男は、おしぼりで拳を拭いながら言った。
「殴りあう度胸もない腰抜けの癖にふっかけてくるからだ。よく拭いとかないと病気がうつる。普通の恋愛できない変態はおとなしくしてろよ。どうせ毎日ケタケタ笑って過ごしてんだろ」
 これには矢嶋もカチンときて、この若造を表に引きずり出してやろうとした時、カウンターで突っ伏していた真一が物凄い怒鳴り声を上げて立ち上がった。
「うるさい! 黙れ!」
 今まで誰も、真一のそんな声を聞いた事がなかった。店内にいた常連組はおろか、矢嶋や殴られた桜子でさえ、ポカンと口をあけて真一を見た。
「なんだよ、お前」
 男が威勢良くやり返したのはよかったのだが、振り返ったのが目の覚めるような美形だったので一瞬怯んだ。完全にすわった真一の目には凄みがあった。
「腰抜け? 変態? 笑って過ごしてる? お前らに言われる筋合いはないよ」
 真一はカウンターのビール瓶の首を掴むと、カウンターに打ち付けてそれを割った。店内に悲鳴が上がる。真一は割れた破片を手に取り、ためらいもなく左手の手のひらを傷つけた。鮮血が滴り、益々甲高い悲鳴が起こった。
「俺は男しか愛せない。病気も持ってる。そんな奴が、ただ笑って過ごしてると思うか?  こっちはな、何をやるにも命がけなんだよ」
 真一が、男に詰め寄る。
「普通のことが、普通にできないって、お前らに分かるか? 俺らを腰抜けって言うほど、お前らは度胸がすわってんのか? ならこの血、舐めてみろよ。舐めてみろよ!」
 真一はそう怒鳴って、男を壁際に追い詰めた。
「うわぁ! こいつおかしいよ!」
 さっきまで真っ赤だった顔を真っ青に変えて男は真一を突き飛ばした。その身体を矢嶋がすかさず支える。その隙をついて、六人は次々店を走り出ていった。矢嶋に抱えられた真一は、激しく暴れながら「逃げるのかよ、こら! 放せ、放せ!」と怒鳴っている。
「すまん、ちょっとおしぼり取ってくれ」
 矢嶋が振り回す真一の左手首を掴んで押さえ込む。桜子が、自分の鼻血を拭うことも忘れておしぼりをいくつも持ってくる。
「どうしちゃったのよ、真ちゃん」
 涙交じりの心配げな桜子に、矢嶋も小さく首を横に振り、おしぼりを三枚掴んで真一の傷を押さえた。
「マスター、今更かもしれないが、ビニール手袋か何か取ってこようか?」
 桜子の後ろで他の常連客が訊く。
「いや、いい。俺の方に傷はないから大丈夫。それより、トイレに分厚いタオルがある。それを二枚取って来てくれるか。病院に連れてくから」
「わかった。アタシ、お店の後片付けしとく」
「悪いな、桜子。・・・おい、真一、真一! 大丈夫か?」
「うわぁぁぁぁぁ! うわぁぁぁぁぁ!」
 暴れるのを止めた真一は、矢嶋の胸に顔を押し付けて泣き出していた。まるで子供のように、大声を上げて泣きじゃくっていた。



Nothing to lose act.04 end.

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