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act.08

 年末の大掃除が終わった頃、真一の家に羽柴が訪れた。
 明日は大晦日、明後日はいよいよ新しい年が始まる。
 羽柴は、右手にブリーフケース、もう左手に巨大なビニール袋という出で立ちで現れた。しかもビニール袋には、有名卸売市場の文字が印刷されている。少々髪の毛が乱れているのは、冬の木枯らしのせいか、それとも年末の卸売市場の人込みに揉まれてのことか。
 仕事収めが終わった直後に年末の卸売市場に出かける羽柴のバイタリティーに、真一は正直目を剥いた。
「いいですか、お母さん。俺がハイッていったら鍋の蓋取ってくださいよ」
 ふつふつと煮える土鍋を真剣に見つめながらそう言う羽柴の気迫に押され、気難しいあの真一の母親も、羽柴と一緒になって鍋を見つめている。そんな二人を見て、真一は笑いを堪えるので精一杯だった。真剣な眼差しの二人を見て大笑いでは、さすがに気が引ける。
 羽柴が、鍋を見つめたままそろりそろりと春菊の山に手をやった。
「ハイ! お母さん、今!」
 真一の母が、土鍋の蓋を取ったところで羽柴は春菊を手早く入れた。
「もう一回蓋ね」
 そう言う母に、「さすがお母さん、その通り!」と羽柴が笑った。なかなかコンビネーションも合っているようだ。
 料理がまったくできない真一は、ただ箸を咥えて見ているだけである。
「羽柴さん、あなた宴会でも鍋奉行やってるんでしょう」
「あ、やっぱり分かりますか」
「分かりますとも。でも、選んできた魚も上等だし、まさかお魚が捌けるとは思わなかったわ。どこでそんなの覚えたの?」
「親戚に料亭をしてるところがありまして。小さい頃、よくそこに預けられてました。まな板と包丁でよく遊んでるような、危ない子供でした」
 アハハと屈託なく笑う羽柴を見て、母も笑っている。こんなに朗らかな母の笑顔を見るのは、真一にとって随分久しぶりなことだった。
 真一は、羽柴とのことをきちんと包み隠さず母に話していた。
 元々、真一が同性の方に興味があることも既に母は知っている。淑子と結婚する前は、そんな真一のことをよく思ってはいなかったようだが、結婚後、あんなことがあったせいか、真一に近づく者に関しては男だろうが女だろうが、毛嫌いするようになった。
 だが、いざ羽柴に会わせてみると、真一の心配をよそに、意外とすんなり母は羽柴を受け入れた。羽柴にそれだけの魅力があるせいか、息子の幸せを祈る親心なのか、本位は真一でも分からなかった。
 ただ、真一の病気が分かって以来、あまり笑うことのなかった母が、またこうして笑い声を上げていることが嬉しかった。
 イブの前日のあのプロポーズ以来(もちろん、正式に結婚できるわけはないのだが)、羽柴の仕事が忙しかったせいもあり、満足に二人の時間は取れなかった。こうしてコタツを囲んで鍋をつっついていると、恋人というよりか、家族のように思えてくる。
 だがどんな形にせよ、それはそれでいいと真一は考えていた。
 羽柴が、傍にいてくれるだけで、それでいい。
 羽柴の子供時代の話に耳を傾けつつ、真一はそう思ったのだった。


 次に羽柴に会えたのは、元日のことだった。
 年末最後の日は互いに忙しく、片やお得意様への挨拶回り、片やマンションの大掃除と、結局夜も会えず仕舞いだった。
 そのせいだろうか、羽柴は元旦の朝早くに須賀家に姿を表した。
「お、着物だ」
 店の奥から出てきた真一を見て、羽柴が嬉しそうな声を上げる。
「和服も似合うなぁ、真一は」
 相変わらず黒のトレンチコート姿の羽柴は、冴えない自分の格好を申し訳なく見下ろした。
「なんて顔してるんですか」
 真一が笑い声を上げる。格好なんか気にしなくても、羽柴は十分人目を引き付ける魅力がある。羽柴には、今ひとつその自覚がないようだが。
「行きましょうか、初詣」
 二人は連れ立って店を出た。周囲の店もシャッターが閉まっていて、町は閑散としている。だが、大きな通りに出ると、浅草の帝釈天に向けての人の波が現れた。
「その着物、自分で作ったの?」
「父の形見なんですよ。もともと父は和装が好きな人で。祖父が紳士服専門の仕立屋をやってなかったら、着物の仕立てを職業に選んでいたんじゃないのかな」
「ふうん。いいなぁ・・・」
 羽柴は、自分の視線が無意識のうちに真一の項辺りを彷徨っているのに気づき、人知れず顔を赤らめた。
 寺の参堂に入るとますます人の波は膨らんだ。羽柴は、大きな身体をこれ幸いと盾にして、真一の腕を取り、前に進んでいく。
 大学時代、アメフトをやっていたというだけあって、器用に人を押し分けてあっという間に本堂まで辿り着いた。真一は大きく息を吐きながらも傍らの羽柴を見上げる。羽柴はケロリとした顔で、じっと自分を見つめてくる真一を不思議そうに見つめ返した。
 真一は、同じ男として圧倒的な体力の差を見せ付けられたようで、正直複雑だった。
「おみくじ、買おう」
 熱心に手を併せている真一に比べ、羽柴はさっさとお参りを済ますと、そう言って真一を促した。
 ── 本当に、子供のようなところがある人だな。
 真一はそれが可笑しくて仕方がない。時に超然としていて、威厳すら感じさせる時もあるのに、こうしてはしゃいでいる羽柴は、まさに少年だった。
「やった。大吉! 真一は?」
「・・・小吉」
 羽柴が、真一のおみくじを覗き込む。『病重し』という文字を見つけると、羽柴はさっとおみくじを交換した。
「あ、何やってるんですか?」
「いいから。真一はそれ持って帰れよ。大吉の、しかも一番だぞ」
 羽柴はさっさと高い木の枝に真一のおみくじを結わえ付けた。
 羽柴の優しさは無骨だけど、暖かい。
「ありがとう」
 真一は素直にその気持ちを受け取ることにした。
 真一が、一番と番号が打たれたおみくじを見つめながら微笑むと、羽柴は何を思ったか、境内の外れの大きな木の陰に真一を引っ張って行った。
「何?」
 真一が首を傾げて羽柴を見上げると、さっと羽柴は真一の唇を奪った。
 唇が触れ合うだけの軽いキス。これが二人にとって初めてのキスだった。
 驚いた真一は、辺りを見回す。塀の向こうを人は通っていくが、二人には気づいていない。
「ごめん。我慢できなくて」
 そう言って羽柴は、頭を掻く。
 真一は、もう一度周囲を確認して、羽柴の頭を引き寄せた。
 今度は、さっきより幾分長く唇を重ねる。
 ふいに羽柴の舌先が歯に当たる感覚がして、真一は顔を放した。
「これ以上は、駄目です。ちゃんと歯医者に行ってからにしてください。もしも口の中に傷があったり、歯茎が腫れてたりしたら危ないですから」
「・・・くそぉ。厳しいなぁ。俺の恋人は」
 羽柴は珍しく悪態をつく。真一は「大事なことですから」とぴしゃりと言い放ち、境内を抜けた。羽柴は、「は~い」としかられっ子のように返事をすると、前を早足で歩いて行く真一の後を、さも嬉しそうに足を弾ませながら後を追ったのだった。


 その後、映画館に行ったがどこもいっぱいで、唯一空いていた映画館も、さすがに男二人で親子づれが連なる恐竜映画を見るのもどうかという話になり、結局元旦から営業しているレンタル屋でビデオを借りて羽柴のマンションに行くことにした。
 世田谷にある羽柴のマンションは、真一が想像していたよりも意外に質素だった。だが、身体が大きいせいもあるのか天井は高いし、ひとつひとつの部屋が少し広い。それに床暖房が設置されているところが贅沢といえば贅沢なところであった。
 玄関を入ると長細い廊下があって、突き当りがリビング。そこに至るまでの壁の左手にバスルームとトイレのドアが二つ並んでいて、反対側には物置と寝室のドアが並んでいる。
 リビングは十畳ぐらいで、大きな窓から家の屋根や隣のマンションの壁が少し見えていた。だが日当たりは悪くない。
 リビングの入口から見て左手に小さなカウンターがあって、その向こう側がキッチンだ。
 台所道具がきちんと整理されているわけではなかったが、使っている雰囲気のあるキッチンだった。振り返ると、リビングから直接寝室に入れるドアもある。
 リビングの中央には、和物の重厚なローテーブルが草色のラグの上にどっかりと腰を下ろしている。マンションの内装自体は洋間だったが、白いクロスの壁とナチュラルな木の雰囲気で纏まっているので、意外に違和感はない。
 キッチンに背を向ける形で置かれたソファーもラグに合わせた渋いグリーンだった。羽柴がねっころがるには足が飛び出しそうな感じの大きさだったが、羽柴の身体の大きさを考えてソファーを選んでいたら、部屋の中がソファーでいっぱいになってしまう。部屋の事情と身体の事情をフォローする最大公約数の大きさを選んだというところだろう。
 ソファーの向かいにはテレビとビデオ、オーディオセットがブロックの台の上に無造作に置かれてある。
 真一が目を引いたのは、年代物のレコードプレーヤーだ。壁際には、古いレコードが無地のダンボール箱に詰め込まれている。一番前に見えるジャケットは、ビル・エバンスがトリオを組んでいた頃のジャズ名盤だった。
「凄い・・・。これ、耕造さんが集めたんですか?」
 詳しい知識はないものの、ジャズを聴くこともある真一が、LPコレクションを覗き込んで言うと、「叔父貴からの選別なんだ」と羽柴は答えた。
「叔父さん? あの料亭の?」
 真一が訊き返すと、羽柴はコートを脱いでソファーに置きながら答えた。
「そ。俺が東京の大学に進学が決まって、いよいよ出発って時に、ごそっとくれたんだ。おかげで東京来るまですげぇ荷物になっちまったけど、嬉しかった。何かかけるか?」
「うん」
「何がいい?」
「僕はあまり詳しくないから・・・。あ、これは? この人なら知ってる。僕もCD持っていますよ」
「トミ・フラ? 案外渋いな、真一は」
 羽柴は、レコードの山からトミー・フラナガンのLPを取り出し、プレーヤーにかけた。
 レコード独特のノイズの後、軽快で跳ねるような音が流れ出てきた。
「あ、凄い・・・。CDと全然音が違いますね。音が丸い」
「そうだろう。でも最近は、新譜でLPを出す人が少なくなったから寂しいよ。ソファーに座ってな。コーヒーいれるから」
「あ、すみません」
 ソファーは少し柔らかめの座り心地である。こうして身体を預けていると、足元からの温かさもあって、思わず転寝をしてしまいそうになる。
「新年からジャズ聴くのもいいもんだな」
大ぶりのマグカップをローテーブルに運びながら羽柴が言う。
「今、インスタントしかないけど」
「ああ。ありがとうございます」
 真一はコーヒーを一口飲んで溜息をついた。おいしい。芯まで冷えた身体が中から温められる。
 羽柴が隣に腰をおろした。
「実はさ。恋人を部屋に入れるの初めてなんだ、俺」
 真一は驚いた顔を羽柴に向けた。
「本当ですか?」
「ああ。自分でも何でか分からないけど、昔はいつも外で会ってた。今そのことに気が付いたよ」
 自分でも意外だったのか、頭の後ろで手を組みながら背を仰け反らせ、物思いに耽っている。
 真一はなぜだか、顔が熱くなるのを感じた。それを気づかれまいとして、コーヒーを立て続けに飲み、舌を焼く。
「アツ!」
 思わず口元を押さえた真一を見て、羽柴が覗きこんだ。
「おい、大丈夫か? ヤケドした?」
「 ── 少しヒリヒリするぐらいですから」
「見せてみろ」
 真一が少し舌を出す。
「赤くなってる」
「ホント、大丈夫ですから・・・」
 そう言って苦笑いする真一の顔がふいに真顔になった。さっきまで口を覆っていた手を羽柴にそっと掴まれたからだ。
 真一が顔を上げると、羽柴の顔が間近にあった。
 今度は、拒めなかった。
 深く口付けされる。ウイルスのことが気にかかりながらも、羽柴のキスのうまさに押されてしまった。
「んん・・・」
 真一が唸っても、羽柴はやめようとはしない。それどころか、着物の裾を割って大きな手が内股に進入してくる。
「 ── やめて、ください・・・」
 キスの合間にそう真一が訴えても、羽柴は聞き入れてくれない。ソファーに押し倒される。
「お願い・・・。やめて・・・」
 いよいよ羽柴の手が最奥に届いた瞬間に、真一は羽柴を突き飛ばした。
 羽柴は勢い余って床に転がる。キョトンとした顔で真一を見上げていた。
 真一は荒い息を吐きながら、乱れた裾を直した。
「どうして・・・?」
 こんなに露骨に拒絶されるとは思わなかったのだろう。羽柴は怒りというより驚いたような声でそう呟いた。
「ごめんなさい・・・」
 羽柴の視線を避けるように身体を横に向け、真一は固く身を寄せた。
「 ── そんな気になれないんです」
 真一の言った台詞に、羽柴は肩を竦める。
「だって、今・・・!」
 羽柴はそこで言葉を詰まらせた。そこから先をうまく表現する言葉が見つからなかったせいだろう。だが、真一も羽柴が言わんとしていることは分かっていた。ほんの一瞬だが、羽柴に触れられたそこは、男であるが故に分かりやすい興奮を羽柴に伝えていたのだ。
「そりゃ、恋人として会った時間は数えるぐらいしかないけど、でも子供じゃないんだし・・・」
 羽柴が焦ったような声で言う。だが、真一には「ごめんなさい。でも、できないんです」と答えるしかなかった。
 そうやって謝る真一に、ついに羽柴も憤りの感情が湧き上がってきたらしい。
「じゃ、いつになったらいいんだ? いつまで待てばいい?」
 きつい口調だった。
「真一が待てと言えば、待つ。俺だって、無理強いは嫌だ。約束は守る。だけど、いつまでかはっきり言って貰わないと、我慢するにも限界がある・・・」
 好きだから、と羽柴は吐き出すように言った。
 それは本当だろう。
 真一だってそうだ。真一とて、羽柴がほしかった。だから身体は反応した。だけど、その快感を上回る恐怖が真一にはある。
 ── やり方さえ気をつけていれば、うつる可能性は少ないと思っていても、やっぱり怖い・・・。
 いつまでたっても期限を答えようとしない真一に、ついに羽柴がキレた。
「じゃ、なにか?! 一生俺は、真一に触れることができないのか?!」
 大きな羽柴の声に、真一の身体がビクッと震えた。
「こんなに愛してるのに、まだ足りないって言うのか、お前は?!」
「そうじゃない!」
「じゃぁ!」
「愛してるから・・・!」
 真一が、キッと羽柴を睨んだ。
「あなたをこんなに愛しているから言ってるんです。そういうことになれば、後戻りできなくなるから・・・」
 その台詞に、今度は羽柴がカチンときたらしい。
「戻る? 戻る必要があるのか? 真一は、初めからそう思ってるのか?」
「だって・・・!」
 真一は一瞬声を詰まらせた。
 涙が込み上げてきそうになる。真一は必死で我慢した。
「僕らのようなゲイが、あなたのようなストレートの人と万が一付き合えるようになっても、一時の迷いで片付けられる時が多いんです。僕が普通の身体だったら、それもいいでしょう。でも、僕は・・・!」
 真一は、その先を続けることができなかった。代わりにこう言う。
「一時の迷いで済ますには、あなたが背負うリスクがあまりにも多過ぎる。それをあなたは分かってない」
 羽柴が、拳で床を殴った。真一は口をつぐむ。羽柴はうつむいたまま、唸るように返してきた。
「俺が、そんな生半可な気持ちでここまできたと思っているのか、お前は・・・。俺だって・・・!」
 羽柴が顔を上げる。獰猛な声と裏腹の、泣き出しそうな顔をした羽柴がそこにいた。
「俺だって、相当覚悟したんだぞ! そりゃ、傍から見たら、楽天的に見えるかもしれない。でもな、俺だって、勇気を振り絞ってここまできたんだ! お前は分かってるのか?! 俺は今まで、女しか愛したことがないんだぞ! それを知ってて・・・、お前に俺がどんな気持ちで告白したのか、お前には理解してもらえなかったのか?」
「そんなこと・・・。十分分かってます」
「なら! ・・・愛してる人を欲しいと思うのは、おかしなことか? 俺は、おかしなことを言ってる?」
「言ってません、言ってませんけど、でも!」
 真一の口が戦慄いた。
「 ── あなたが、大切なんです。分かってください・・・」
 羽柴が、奥歯をかみ締めた。眉間に皺をよせ、口元を覆いながら、真一から視線をはずした。
 しばらくの沈黙の後、真一は一言、「帰ります」と言って部屋を出て行った。
 後に残された羽柴は、ついに真一を追いかけることができなかった。



Nothing to lose act.08 end.

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編集後記

虫唾が走るほど甘いと思ったら、いきなり大喧嘩。この二人、本当に前途多難っす・・・。密かにその先の出来事を期待されていた方、ごめんなさい(汗)。真一君の性格が性格なので、こんなことになってしまいました(大汗)。次は、次はがんばりますから。なにとぞ今後もよろしくお願いいたします。ね?

[国沢]

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