irregular a.o.ロゴ

nothing to lose title

act.06

 翌日も、その翌日も真一が店を開けることはなかった。幸い、持っている仕事は羽柴の仕事だけだったから、店を閉めていても罪悪感には駆られなかった。
 心配げな母親には、手を怪我したことを理由に、何となく逃げていたが、母親は何かを察しているようだった。
 羽柴は何度となく訪れてきたようだ。まったく電話も通じず、携帯も電源を切っている有様だったから当然のことだろう。朝、夕、時には深夜の時もあった。シャッターをノックし、道路に立ちすくみ、開くことのないドアに額を擦り付けていた。
 真一は、そんな羽柴をずっと見ていた。表からは見えにくい二階の小さな窓から、ずっと。
 ある夜には、ドアに引かれたカーテンの向こうに座り込む羽柴の影が見えていた。街灯が近くにあるせいで、はっきりと浮かんでいる広い背中だった。
 真一は、電気もつけないまま、カーテン越しに差し込む光だけで、マネキンに着せたできかけのタキシードの仮縫いを始めた。 息を潜め、羽柴の溜息を時に聞きながら、丁寧に生地を縫い合わせていく。袖、襟、身ごろ・・・。寸分たがわぬ寸法で浮かび上がるマネキンの背中は、まるで羽柴の分身だった。
 生地の上を、真一の長い指が滑らかに滑っていく。
 そう、これはテーラーである真一が唯一許された贅沢。
 ── 例え、本人の身体に触れることはできなくても、自分はあの人の身体の形をこの手で何度でも再現することができる・・・。
 マネキンの肩が作る美しい曲線を、その指でゆっくりと辿った。その指とドアの向こうの影が重なる。
 あまりにいとおしくて、気が狂いそうになってしまいそうだ。
 真一は両目を閉じ、静かに大きく息を吸い込んだ。目を開くと、ドアの向こうの影は消えていた。


 羽柴が帰宅すると、留守電にメッセージが入っていた。
 また、市倉由香里からだろうか。彼女にとっては、あまりにも一方的で不可思議な別れだったせいで、最近の留守電には彼女のヒステリックな愚痴がよく吹き込まれていた。
 しかし、羽柴がスイッチを押すと、意外な声が聞こえてきた。
『 ── 須賀です。もう、ここには来ないでください。ここに来られても、あなたの為にならない・・・頼まれていたタキシードは、銀座の工藤テーラー店にお願いいたしました。父の古くからの友人で、一流の腕の持ち主です。素材もご予算もすべて同じ条件で引き受けていただけると言っていただきました。納期も、最優先でしていただけるそうです。いずれ、そちらの方からご連絡をさせるように手配をしておきます。 ── 本当に、申し訳』
 留守電は、そこで切れていた。
 羽柴はしばらくの間電話機を眺め続け、次の瞬間、それを床に叩きつけたのだった。


 自分でもバカなことをしていると思う。
 翌日、羽柴は電車に揺られながら、今日何度そう思ったことだろう。
 結局、会社はサボってしまった。 どうしても、真一のことが頭から離れない。そんな羽柴が、朝いつものように通勤電車に乗り込んだら、ふいに変なアイデアが頭に浮かんだ。
 あいつにあったのは、この電車でだった。
 真一の腕に自らの腕を絡めるあの青年の顔を思い浮かべたら、会社に行く気がなくなった。それでも良心が痛んだから、携帯で会社に急用で休むと伝え(親戚のおばさんに死んでもらった)、電車に居座り続けることにした。
 恋は盲目。特に男の恋は、年齢に関係なく男をただのマヌケにしてしまう。
 そう、羽柴は恋をしていた。
 三十を越えるいい大人が、何を血迷っていると我ながら呆れたものだが、最早否定はできなかった。
 ── 相手は、不実な男じゃないか。妻がいるにもかかわらず、あんなに派手な若い男と腕を組むだなんて、不実だ。
 何度もそう考えた。自分の気持ちを諦めさせるため、ありとあらゆる悪いことを、真一に対して考えるようにした。それなのに。
 逃げられれば、追いたくなる。男の本能なんて、そんなものなのか。
 どんなことを思い浮かべていても、結局は真一が他の男のものなのだと言うことに腹が立った。
 男に対してこんな感情を抱くのも初めてなら、恋愛に対してこんなに感情的になるのも初めてだった。
 はっきり言って、今まで女には不自由してこなかった。中学校でも、高校でも、大学でも、社会人になってからでさえ、自分が意識していなくても常に女性が隣に座っていた。それもこれもあまり長続きしなかったのは、羽柴に認識があまりなかったからだ。人を好きになることがどういうことなのか、ということを。それが今更、こんな形で知ることになるなんて。
 客観的には、山手線で何回も路線を回り続ける自分をバカにするもうひとりの自分がいる。バカなことは十分分かっていた。こんなことをしたって、あの白髪の青年に会えるとは限らない。別の電車に乗る可能性の方が高いだろう。でも羽柴は、やめることができなかった。外からは決して分からない、内に秘められた感情の暴走を抑えることができなかった。


 その日仕事が遅番だった隼人がその車両に乗り込むと、遥か向こうの車両から、猛然とドアを開けて歩いてくる黒いトレンチコートの男が見えた。最初は自分と関係ないだろうと、一旦は窓の外に目をやったのだが、ふいに黒いコートと記憶が一致して、再び目を戻した。男は、もう目の前にまで来ていた。
 男が何を言い出すのかは、隼人は何となく予想がついた。ここ最近、真一とは一切連絡が取れなくなっている。 確か“羽柴”とかいったこの男は、噛み付かんばかりの獰猛な顔つきで、言った。
「ずっと待っていた。君に聞きたいことが山ほどある」
 ずっと待っていたという言葉に度肝を抜かれ、隼人は呆然とした顔で頷いたのだった。


 その日、久しぶりに真一は店を開店させた。
 左手の傷もほぼ完治し、母親に言い訳がたたなくなったせいもあるが、先日工藤テーラーに電話をかけた時、六十八歳の誕生日を迎えても未だ現役の老テーラーに少し叱られてしまったのだった。工藤テーラーには、父の代から世話になっている。父が亡くなってからは、職人としての技術を工藤から学んだ。
 恩は十分受けているし、まるで本当の息子のように可愛がってもらっている手前、どうしても逆らえなかった。
 電話の留守電を解除し、店のシャッターを開けた途端、早速注文の電話がかかるところを見ると、客も皆待ちわびていたのだろうか。恐らく工藤の差し金もあるのだろうが、やはり店を長く休んだのは、お客様に取って悪いことをしたと、真一は反省をした。
 羽柴には、今日工藤から朝一番に電話を入れてもらう約束になっていた。 もう会うことはあるまい。そう思った矢先、店に羽柴がやってきた。まだ午前中早い時間。
  一体会社はどうしているのだろう。 真一はふいに苛立たしさを募らせた。自分の為に、羽柴の生活を犠牲にしてほしくなかった。
「電話でお知らせしたでしょう。工藤テーラーからも、お電話があったはずです」
「ああ。あった。でも断った」
 強い口調。厳しい表情。こんな羽柴を見るのは初めてだった。
「君の仕立てたものでなければ意味がない。俺は、君に頼んだんだ」
 ソファーに座りもせず、仁王立ちのまま羽柴はそこに佇んでいた。身長が大きいだけに、圧倒的な存在感があった。
「僕の気持ちはお伝えしたはずです。ここに来られても困ると。あなたがどういうつもりで何度もここに来られるかは分かりませんが・・・」
「いいや、君は分かっているはずだ。俺がどうしてここを訪れずにはおれないのか」
 強い瞳が真一を見つめていた。真一は視線を逸らし、作業テーブルの向こうに座ると、ワゴンの引き出しをあけて道具を取り出しながら、「何を仰っているのか・・・」と苦笑を浮かべた。だが、「聞いたよ。君の奥さんが既に他界していること」という台詞に真一の笑みは強張った。
「あの梶山君から、すべて聞いた。君と奥さんのこと、そして奥さんとの付き合いが、君にとって例外だったこと。梶山君と君の間には、相互の恋愛感情は生まれていないこと。男を愛したことがない俺への、君の不安な気持ち。すべてね。君は男を恋愛対象として元々見ることができるのに、なぜ俺のことは受け入れてくれない。はっきり俺の気持ちを伝えていなかったせいであるのなら、今ここではっきり言う。俺は君のことが好きだ。怒って自分の家の電話を壊すぐらい」
 真一は、羽柴をゆっくりと見上げた。さっきとはうってかわって、優しげな瞳の羽柴がそこにいた。
「本当に、君のことが好きなんだ」
 真一はギュッと目をつぶった。テーブルの上で握り締めた拳が震えていた。
 どうか、どうかそんな瞳で見つめないでほしい・・・。
 真一は椅子を回転させ、羽柴に背を向けた。
「あなたは、分かっていない。僕のことを、何ひとつ」
「・・・そう、そうだな。そうかもしれない。だけど、そんなことはこれから、克服していくことじゃないのか?」
 いつも前向きな羽柴。屈託がなく、穢れもない。真一は、いつか街で見かけた羽柴の姿を思い起こす。交差点の向こう側、取引先の人間と盛んに話しながら歩いている姿は、眩しいほどに生き生きとしていた。それを、自分が奪うことはできない・・・。
「小さなことではないのです。付き合ってから後、そんなこととして片付けることは、できないのです」
 真一は、一度大きく息をすると、ゆっくりと振り返り、羽柴を見つめた。そして努めて静かに、そして穏やかにこう言った。「僕は、エイズです。正確には、発病はまだしていないので、HIV感染者と言います」と。
 しばらくの沈黙があった。羽柴の顔から、表情がなくなった。だがその瞳は、羽柴の中の動揺をはっきりと物語っていた。
「受け入れられないことの方が、まだ自然なのです。受け入れられなかったとしても、それはあなたのせいではない」
 真一は、淡々とそう言った。
「もうお帰りください。そしてもう二度と、ここには来ないと誓ってください」
 羽柴の口が、少し動いた。しかし、そこから言葉はとうとう発せられなかった。
 羽柴は、真一と視線をあわすことなく、店を出て行った。
「これでいいんだ。本当に、これでよかったんだ」
 真一は口に出して、そう呟いたのだった。 不思議と、涙は出なかった。


 氷が溶けて、グラスの中でカタリと音をたてた。崩れ落ちた氷の塊に、琥珀色の液体がゆらゆらと揺れる。上の層に溜まっていた透明な液体が、少しだけ混ざり合った。
「どうしたんですか、羽柴さん」
 カウンター越し、年老いたバーテンにそう言われ、壁際のカウンター席でぼんやりとグラスを眺めていた羽柴は、不意に現実に引き戻された。
 ここは羽柴のなじみの店だった。南青山にあるくせに、少し無骨な店の作りが気に入っていた。酒は女性向きの洒落たものも出すような店だったが、男一人でいても居心地がいい。古びたレンガ造りの壁を、ほのかな間接照明が照らしている。床は、古くなった線路の枕木が敷き詰められていて、丁寧に引かれたワックスで艶やかに輝いていた。カウンター席から少し離れて、大小取り混ぜたテーブルが、いくつか並んでいる。その日の店は、カウンターには人がいなかったものの、それらのテーブルはすべて埋まっていた。少々騒がしい。
「もし、あちらのお客様が気になるのでしたら・・・」
「いや、いいんだ、溝渕さん」
 羽柴は少し笑った。バーテンが、羽柴の前にさりげなく、羽柴の好きなカレー味のビーンズスナックを置く。羽柴は、小さな声で「ありがとう」と呟いた。
 今日は長い一日だった。昨日真一に告げられたことを考えながらの仕事だったので、あまり捗らなかった。いつもはスピード感がある社内での時間はあっという間に過ぎていくというのに、今日はまるで違っていた。
「こう言っちゃなんだが、羽柴さん。あなた、酷い顔だ。まるで地雷でも踏んだような顔つきをしていますよ」
 バーテンの溝渕とは、本音で言い合う仲だった。会社での愚痴はここには持ち込まない姿勢の羽柴を気に入ったのだろう。確かに、会社の憂さ晴らしに飲みに来る客が多い中、そんな客は珍しい。いずれにしても、羽柴がここで飲む酒はいつも“楽しい”酒だった。
 その羽柴の変貌によほど驚いたのだろう。バーテンの口から、先ほどのような台詞が出た訳は。
 羽柴は笑ってごまかした。だがそれも、力のない笑い声だった。
そして、やがてそれは吐き出される息だけになり、次第に嗚咽へと変わっていった。
 ウイスキーの入ったグラスに、ぽたぽたと雫が落ちていく。
 いつしか嗚咽は、号泣に変わっていた。
 店中がしんと静まり返って羽柴を見ている。大の男が、こんな屈強そうな男が、大声を上げて泣いている様が余程珍しいのだろう。
 いいさらし者になっていることは十分分かっていたが、羽柴は流れ落ちる涙を止められなかった。



Nothing to lose act.06 end.

NEXT NOVEL MENU webclap

編集後記

いやぁ・・・。我ながら重いテーマですよね・・・。でも、最近あまり一時ほどは(金城君・深きょんのドラマ以降)、この病気の感染についてあまり聞かなくなったような気がしますが、感染者は着実に増加しているそうです・・・。仕事がらみで、この病気の実情を知る機会がありまして、女の人の方が感染者が多いことに驚きました。皆さんも、人事とは思わずに、セイフ・セックスを心がけましょうね。・・・なんだか、難い後書きになってしまいましたが。それでは、また次回。

[国沢]

小説等についての感想は、本編最後にあるWEB拍手ボタンからどうぞ!

Copyright © 2002-2019 Syusei Kunisawa, All Rights Reserved.