act.11
「以上で、資料の説明は終わります。何か、ご質問は?」
大会議室に、マイクを通した羽柴の声が響く。
すし詰め状態の会場から、ざわめきが沸き起こる。
先ほどまで聞こえる音と言えば、羽柴が徹夜で構えた資料を捲る音程度で、独特の熱気を帯びた空気の中、機関投資家達は、息すら潜めて羽柴のレポートに聞き入っていた。
毎年恒例になっている羽柴の会社主催の市場研究会は、年の初めに行われることもあって、その年の動向を占う大事な研究会でもある。
この時期は、他の証券会社でもこういった研究報告会を盛んに行っていた。
個人や企業の機関投資家達は、様々な証券会社の研究報告会を渡り歩きながら市場の動向を探るとともに、どの証券会社が的確かつ有能かを見極めるのである。
羽柴自身、過去数年間、簡単な報告や先輩達の市場分析、資料の作成などを手伝ってきた経験はあったが、羽柴ひとりで仕切る本格的な分析報告は初めてであった。しかも、今一番注目を集めている情報処理関連の銘柄に関するレポートを、大取りで行うなど、大抜擢もいいところだった。
来期の海外派遣を前にしての最終試験ということだろう。
正直言うと、機関投資家の視線より、会議室の後ろに陣取っている会社役員達の視線の方が鋭く感じた。
元々、羽柴の海外派遣が決まったのも、高校時代にイギリス留学の経験があり、流暢な英語が話せることと、アナリストとしての経験は浅いがトレーダー時代の活躍があってのことだった。
予定としては、年度があけた頃、羽柴の会社と提携を結んでいるアメリカの名門証券会社の受け入れ態勢が出来次第ということになっていた。羽柴が、タキシードを設えたのも、そのためである。
そのことも見越してだろうか。
今日の研究会は、海外からの参加者も多く目に付き、質疑応答では、英語での容赦ない質問も浴びせられた。
だが、どの質問も臆することなく答える羽柴に、アナリスト部部長の稲垣もホッと胸を撫で下ろした。ある意味、稲垣の方が当の羽柴より緊張していたのかもしれない。
「さすが羽柴さんって感じですね」
羽柴の後輩に当たる二ノ宮が心底感心した様子で呟く。
目下英会話学校に通っている二ノ宮にとって、海外投資家達の質問に答える羽柴の台詞は、専門用語が多すぎて殆ど理解できない。
「まさに今の奴は、飛ぶ鳥を落とす勢いってやつだな」
稲垣がワイシャツの袖で額の汗を拭う。取り分け暖房を効かせているわけではなかったが、室内は異常に熱い。稲垣も、今回これほどの人間が集まるとは思っていなかった。
稲垣は、自分達の斜め前に固まっている幹部達の満足そうな横顔を見つめた。社長の隣には、去年TIME誌にも取り上げられたことのあるトッド・ライリー氏の顔もある。
彼は、羽柴が研修をする先の証券会社の経済研究所所長だった。
彼もまた、若い異国のアナリストの堂々たるレポートに、手ごたえを感じているらしい。目を細めて壇上の羽柴を見つめている。
稲垣は改めて大きく深呼吸をした。
稲垣とて、羽柴のことはかわいかった。
先見の明があり、感も鋭い。それに感を裏打ちする実力もあって、度胸もよかった。
そしてなにより、羽柴は一緒にいて気持ちのいい男だ。この業界人にしては珍しく裏表がなくて、明快である。
だからある意味、私生活での感情を仕事中も引きずることがある。
唯一羽柴の欠点と言えば、そこだ。
年末から年始にかけての羽柴の私生活がどんなことになっていたかは分からないが、年明け頃は、誰が見ても本当に最悪の顔つきをしていた。
もちろん、私的なことで仕事の能率が大幅に下がるような男ではなかったが、あんな顔つきで仕事をされれば、嫌でも他人を不安にさせる。特に羽柴はここ数年の間にアナリスト部のムードメーカーになっていたから、尚更である。
浮いたと思ったらまた沈んで、沈んだと思ったらまた浮いて。外出した時は、妙に帰りが遅いし、休憩時間には誰とも談笑することなくぼんやり煙草を吹かしている。
稲垣は、何だか思春期の息子を抱えた母親のような心境になっていた。だがそれでも羽柴は、仕事の重要な点はきちんと外さずこなしていたから、叱るにも叱れない。
今度の研究会は大丈夫だろうか・・・と稲垣が冷や汗を掻き始めた頃、羽柴がまた変わった。
稲垣が危惧していた感情の危うさがまったくなくなった。
以前のように、いや、以前よりまして超然とした自信が羽柴の身体から立ち上り始めた。
羽柴が時々借り出されるトレーダー部でも、それは話題になっていた。「羽柴は、証券マンとして一皮剥けたと」。
危機に直面しても、以前のように限界ギリギリで怒鳴ることはなくなった。むしろ、トレーダー室にいる誰よりも落ち着いていて、焦りから来る恐怖に震える同僚を、何気ない一言で鎮めることさえやってのけた。
── 羽柴は、証券マンとして成長したんじゃない。
稲垣はそう思っていた。 羽柴は、人間的に成長したのだと。
時々羽柴は、所帯を持った男が見せるような円熟した表情を浮かべるようになった。
── ひょっとしたら、結婚が近いのかもしれない。確か、柏崎も羽柴の彼女に出くわしたと言ってたしな。
「他にご質問はないでしょうか。 ── ないようでしたら、これで私からの分析報告は終了させていただきます」
拍手と共に羽柴が壇上から降りる。このような研究会で、拍手が起こることは珍しいことだった。
「いやぁ、稲垣君。立派な部下を育ててくれたね」
気づくと、専務の伊丹が横に立っていた。
「ライリーさんも、大満足だよ。予想以上の人材だと、太鼓判を押してくれた。これで名実共に、羽柴君が我が社を代表する海外研修員として認められたといっていい」
「ありがとうございます。それを聞いたら、羽柴も喜びます」
「ついては、羽柴君の研修の時期なんだがね」
「はい」
「来年度を予定していたんだが、ライリーさんが、今すぐにでも受け入れたいと仰ってる。どうやらあちらさんも、研修とは言っているが、羽柴君の実力を向こうでも試させたいと思っているらしいな。我が社も鼻が高い。今すぐというのは無理だと思うが、なるべく早く発てるように、アナリスト部でも調整を行ってもらいたいんだが」
相手の食いつきのよさに、正直稲垣は、内心驚きつつ、外にはそれを出さないようにして、「はい」と答えたのだった。
目前の医師の顔が、よく見えない。
真一は注意深く、2回瞬きした。
「大丈夫かね?」
今自分が告げた言葉の重さを十二分に知っている医師は、真一の正気を確認するために、彼の右手をぎゅっと握ってきたのだった。
「はい。大丈夫です」
真一が返した言葉は、意外にもしっかりしていた。だが、その右手は小刻みに震えていた。
「気を確かに。さっきも言った通り、望みがない訳ではないから」
「はい。分かっています」
真一はそう言って目を伏せた。
真一の馴染みの看護婦が、診察室のカーテンの向こうで洟を啜っている音が聞こえ、「こら!」と医師は腹立たしげに声を荒げた。
「先生」
真一が顔を上げる。
医師は苦々しい表情を浮かべ「すまない」と謝った。
「いいえ。いいんです」
真一が、静かに微笑を浮かべる。
医師がこれまで告知をしてきた中でも彼は、ひどく穏やかな表情をしていた。
「ありがとうございました。明日、またきます」
真一はそう言って深々と頭を下げたのだった。
研究会があった夜、遅い時間だったが羽柴が須賀家を訪れた。
大事な話があるから家に居てくれと電話があり、真一は起きて待っていた。
実は真一も、羽柴と母に告げようと思っていた大事な話がその日できたので、丁度よいタイミングだった。
真一の話は、話の内容が内容なだけに、一度に済ませてしまいたいと思っていたので、母にも起きて待っていてもらった。
母は呑気にテレビドラマを見て笑っている。
その母の横顔を見つめ、真一が何とも言えない気持ちになった時、店の反対側にある玄関のチャイムが鳴った。
真一がドアを開けると、いつになく真剣な顔をした羽柴が立っていた。
「あ、お母さんも起きてたんですか」
羽柴が居間に入ってくると、母の顔が更に明るくなった。
「羽柴さんが来るっていうから、起きて待ってたのよ。真一が私とあなたに大事な話があるって言うし」
「大事な話?」
羽柴が真一を見る。真一は少し笑った。
「僕の話は後からでも構わないよ。耕造さん、先に。コタツ入ったら? 寒いから」
「今、お茶入れるわね」
母が席を立とうとするのを、羽柴が制した。羽柴はコートも脱がず、いきなり母の前に正座をして、頭を下げた。
「息子さんを、俺にください!」
母も真一も、きょとんとする。
「・・・とっくの昔にあげてるじゃないの」
母の何とも抜けた答えに、真一は危うく吹き出しそうになる。だが、羽柴が一向に頭を上げないのを見て、ただ事ではないことに気が付いた。
「そういう意味じゃないの?」
母も、訝しげに羽柴の顔を覗き込もうとする。羽柴が、顔を上げた。
「息子さんを、アメリカに連れて行きたいんです」
アメリカ・・・真一と母は、顔を見合わせた。
「自分でも、もっと先の話だと思っていたんですが、話が急に決まって。来月頭には、あちらに行かねばなりません。あちらに行けば、最低でも3年間、向こうに滞在することになります。急なことで、本当に申し訳ないのですが」
改まった口調で羽柴が言う。
「もしよかったら、お母さんにも一緒に来ていただいてもいい。あちらでの生活は、俺が保証します」
羽柴の突然の申し出に、母は口が開いたままである。
「俺は真一さんのことを真剣に愛しています。一緒にいたい。一生、傍にいてほしいと考えています。彼を幸せにしたい」
羽柴が、真一を見つめた。
「一緒に来てくれ。君が今の生活を犠牲にしなければならなくなることは分かっているが、3年間もだなんて、耐えられない。犠牲になった分、俺が幸せにするから。真一が向こうでも今の仕事を続けられるように、何とか努力してみるから。ついて来てくれないか」
真一は、言葉もなく、ただ羽柴を見つめた。なんと言っていいか分からなかった。
「もちろん、今すぐ答えが出るとは思ってないよ。返事は後でもいい。正直な気持ちを聞かせてくれ」
真一は、躊躇いがちに視線を外した。
酷く動揺していた。
その息子の動揺を、母は敏感に察知した。
「とにかく、そんな寒いところで座ってないで、コタツに入りなさいよ。今のことは、また時間を空けて話し合ったらいいんだし・・・」
母の申し出に、羽柴が苦笑した。
「今日はもう遅いんで帰ります。今のこと、ゆっくり考えてもらいたいし。じゃ」
羽柴が立ち上がる。
「あっ、待って! 真一、あなたも話があるんじゃなかったの?」
母に突っつかれる。
真一はハッとして顔を上げた。
包み込むような優しげな瞳の羽柴が、真一を見つめていた。
真一の口が少し戦慄く。
「?」
母と羽柴が、いつまでも何も言わない真一を、怪訝そうに見た。
「どうしたの?」
母の声に、真一は笑顔を浮かべた。
「耕造さんがあんまり凄いこと言い出したから、忘れちゃったよ」
ハハハと笑い声を上げる。
それはいつもの真一の朗らかな笑い声だった。
一人きりになった居間で、真一はコタツに入ったまま、ぼんやりとしていた。随分と長い間。
「私のことなら気にしないで、あなたのすきなようになさい」。羽柴が帰った後、そう母は言った。
「私はこの年だから無理とは思うけど、あなたは海外のテーラーの仕事場を見てみたいって前から言ってたじゃないの。それに、一生向こうにいる訳じゃないんだし、こっちの生活も、お父さんが残してくれた蓄えがあるわ。年金だってもうすぐもらえるようになるんだし、心配してもらわなくったって大丈夫。私を理由にして、羽柴さんの申し出を断るようなことはしないでちょうだい」
気丈な母は、きっぱりそう言うと、自分の部屋に消えていった。
── そうは言っても・・・。
真一は、正直躊躇っていた。
── 母のことは心配だし、それに何より自分は・・・・。
その先を続けようとして、真一はその考えを止めた。
背筋が寒かった。
次の土曜日、真一の家に向かって出かけようと羽柴が考えていた矢先、チャイムが鳴らされた。
覗き窓から外を伺うと、真一が立っていた。
羽柴は、急いでドアを開け、びっくりする。
「どうしたんだ、その荷物」
そう言われた真一は、テレくさそうな表情を浮かべた。彼の横には、大きな旅行鞄がある。
「まだあっちへ出発するには時間があるけど・・・」
羽柴は、少々頼りなげな声でそんな冗談を言った。
羽柴も真一がそのつもりでこの荷物を持ってきているようには感じなかったからだ。
事実、その羽柴の感は正しかった。
「これは、そういう意味ではないんですけど・・・。あなたには悪いのですが。ちゃんと話したいので、入ってもいいですか?」
「あ、ああ。もちろん」
内心羽柴は落胆しながら、真一をリビングまで誘った。羽柴が、真一の手から鞄を取る。ずっしりと重い。
「コーヒーいれるな」
キッチンに行こうとする羽柴の腕を、真一の手が止めた。真剣な真一の目に、羽柴は少々緊張した面持ちで真一の隣に腰掛けた。
「随分、悩みました。あなたの申し出は凄く魅力的で・・・、本当に嬉しかった。すぐにでもついていきたいって思いました。でも・・・」
「やっぱりお母さんを置いては行けない・・・か?」
真一は少し寂しげな笑顔を浮かべ、頷いた。
「母に海外暮らしは無理です。父の死以来、ずっと引きこもりがちだった母は、最近になって、ようやく変わってきました。外にもたくさん友達ができたようだし・・・。それを奪いたくないんです」
羽柴は、真一がそう言い出すことは予想していた。そんな真一だからこそ、羽柴は真一を好きになったのだから。
「本当に、ごめんなさい」
「いや、いいんだ。俺が度々帰ってくればいい」
羽柴はそう言って真一を抱き締める。
真一はほっとしたように、身体を羽柴に預けた。
「それで・・・、厚かましいとは思うんですけど、出発の日まで一緒にいさせてもらいたいんです。そう思ったら、いてもたってもいられなくなって・・・。もし、よかったらですけど・・・」
耳元で囁かれる真一の提案に、羽柴は目を輝かせた。
「本当か?!」
「ええ。この荷物が、見えないんですか?」
互いの視線の先に、あの大きな旅行鞄がある。
再び羽柴は、真一を抱きしめる。
「これからは、朝起きたら隣にお前がいてくれるんだな・・・」
自分の額を真一の額に擦り付ける。
互いに微笑んで、軽い口付けを交わす。そして次第に羽柴は、真一をソファーに押し倒して行った。
羽柴と真一の同棲が始まってからというもの、真一はできるだけ店を早くしまって、羽柴の帰る前に羽柴の家に帰宅する生活を送った。羽柴の家に行く前に、必ず毎日かかりつけの病院に通わねばならなかったから、なおのこと真一の生活は忙しくなった。
いつも帰宅時間が午後9時前後である羽柴のために、何とか料理も構えるようになって、まるで仕事を持った主婦みたいだと、自分でちゃかしてみせたりもした。
「俺は家政婦を雇ったわけじゃないんだから」と、流石に羽柴は、家事全般を真一がすることを嫌った。だが、真一がキッチンに立つことについては微笑ましいらしく、時間の許す限り二人で料理をしたりもしたが、洗濯や掃除については、羽柴がやることの方が多かった。
料理をする時間がない時には、羽柴の馴染みである近所の居酒屋に行った。「そこの女将がきれいでなぁ」という羽柴に正直、少し嫉妬を覚えつつ、実際とてもきれいだったのでテレたりもした。
まさに夢見るような時間だった。
今まで狭かった真一の世界が、羽柴といることで、一気に広がった。
だが一番嬉しい時は、仕事で疲れた羽柴が真一の腕の中で安心しきった寝顔を見せる時である。
羽柴にとって、今までで一番安らぎを与えられた相手が真一だった。
セックスをしている間でも、真一をその腕に抱きながら、実際のところ、抱かれているのは自分なのではないかと思う瞬間がある。なぜか羽柴の方が感極まって涙を零した夜もあった。
自分の命より大切なものって、本当にできるものなんだな・・・。
羽柴は、しっとりと汗ばむ愛する人の身体を抱きしめながら、心底そう思った。このままこれが永遠に続けばいいのに・・・と。
Nothing to lose act.11 end.
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編集後記
さきほど、ついにこの話の最終回を書き終わりました。大筋の話は大分前に書き終わってたんだけど、ちょこちょこ手直しして、やっと完成。といっても一気に公開するにはやっぱり長いので、もうしばらく「毎週土曜日」にお付き合いくださいね。
ところで、ここのところ最近はセリーヌ・ディオンをBGMに書いてました。なかなかベタベタな感じですが、やっぱりいいものねぇ・・・。映画「アンカーウーマン」のエンディングにかかっていた曲とか、凄く好きです。この話の最終回を書いている時は、ベスト版のそこら辺の曲をしつこいぐらい聴いてました(笑)。だって盛り上がるんだもの~。まさしく、「ひとりオリジナル映画状態(大汗)」。思い込みの激しい乙女座である私の妄想力は、留まるところを知りません。あ、そう言えば、2月8日って、真一の誕生日だったんじゃない?今コレ書いてて思いつきました。ちなみに、私はマイケル・ジャクソンと同じ誕生日です(ザボ~ン!!)
[国沢]
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