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nothing to lose title

act.07

 あの日から、一週間近く経っていた。
 昨日から、身体の調子が芳しくない。真一は、母が呼びつけたタクシーに押し込められ、病院まで向かうことになった。
 オフィス街に差し掛かると、渋滞に巻き込まれた。窓の外には、巨大なビルが立ち並んでいる。
「参ったなぁ・・・」
 運転手の呟き声を聞きながら、真一は信号待ちをしている人込みに視線をやった。
 釘付けになる。
 雑踏の中に羽柴がいた。
 背が高いので目立つ。出先からの帰りだろうか。寒そうな風に身体を竦ませる人々の中、まるで岩の上に燐と立つ若いライオンのように、怯みなく立っていた。
 考えてみれば、こんなにまじまじと羽柴を観察したことはない。
 高い鼻。澄んだ瞳。脚は特別長いという訳ではないが、全体のバランスが取れている。
 横断歩道の信号が青になった。目の前を、羽柴が通り過ぎていく。細々と足を進める周囲と比べ、ゆったりとしたそれでも歩幅は大きいので、周囲より早いスピードで歩いて行く。
 羽柴は、反対車線側の歩道をタクシーの進行方向に向かって行った。
 次第に小さくなる羽柴の姿に、真一は指を這わせた。冷たいガラスが、真一の体温を奪っていく。
「お客さん、信号が青になったら、道変えようか」
 運転手にそう言われ、真一はすぐに答えた。
「このままで行ってください。時間かかってもいいですから」
「でも・・・」
「お願いします」
 少しでも長く、あの人の姿を見ていたい・・・。
 真一は、近づいてやがて後ろに遠くなる羽柴の姿を、ずっと目で追った。


 「お薬飲む時間、気をつけてくださいね」
 いつもの受付の女の子にそう釘を刺され、真一はゴホンと咳をしながら足早に病院を後にした。
 発病はしていなかったが、検査の数値は芳しくなかった。
「ストレスはいかんよ、君。もっと幸せになることを考えなさい」
 幸せね・・・。
 主治医の台詞を反芻し、真一は少し笑った。
 幸せって、どういうものなのだろうか。そもそもそんなもの、この世に存在するのだろうか・・・・
 誰もその問いに答えてくれる者は、いそうにない。


 世の中は、いつしかクリスマス一色になっていた。明日はイブである。
 学校が休みに入った悪がき四人組が、この間のお詫びと言って、なかなかの大きさのツリーを店に置いていった。どうせこづかいを合わせて買いに行ったのだろう。本物のもみの木に、彼らがつけた少々乱雑な作りの飾りが揺れていた。
 真一は朗らかな笑み浮かべ、自分でもようやくこんな微笑が浮かべられるようになったのかと思った。
 いつもの有閑マダム達が、ぞろぞろと店に押しかけ、いつものように持ちよりのお菓子を摘みながら、真一の煎れたコーヒーを味わう。その傍らでは、ストーブの上のヤカンから、湯気が優しく立ち上っていた。
 見慣れた風景。見慣れた笑顔。いつも通りの時間。
 きっとあれは、ささやかな夢だったに違いない。今年ひとりきりの自分に、神様がくれたささやかな甘い夢。あんな素晴らしい人が、少しの間でも自分を好きになってくれたという、甘い甘い幻。
 どんなに苦しい時間だったとしても、過去になってしまえばいい思い出に変わっていくものだ。
 おばさん達の冗談に「ハハハ」と笑い声を上げながら、真一はミシンを踏んだ。カタカタと小気味のいい音が響く。
 真一の背で、カランと鐘が鳴った。
「あら、いい男」
「バカね、この前もそう言ってアンタひんしゅく買ったでしょ」
 そんな会話に、真一はギョッとして振り返った。
 黒いコートを見上げていくと、少し痩せた羽柴の穏やかな顔があった。
「すみません、お嬢さん方。これからシンチャンにプロポーズしようと思うので、席を外していただけませんか」
 いつかの真一の口調を真似て、羽柴が言った。真一ばかりか、おばさま達も目を大きく見開き、互いに顔を見合わせた。
 羽柴は一向に動じることもなく、コートのポケットからボルドー色のリングケースを取り出した。それを開けると、プラチナのシンプルなリングが収まっている。
 それを見ておばさま軍団のひとりが、これは大変と他を急き立ててソファーを立った。それでもその一人が、「これって、どういうことよ?」といぶかしんでいるのを、他の二人が「いいから」と制してさっさと店を出て行った。
 真一は動揺した表情のまま、ウインドーの向こうに消えていくおばさま連中と羽柴を代わる代わる見た。
「給料の3ヶ月分とは言えないが」
 羽柴はそう断って、作業テーブルの傍らに立った。
「君には金より銀の方が似合うと思って」
 そう言って、リングケースごと真一に差し出す。
「どうか、受け取ってくれ」
 真一は、銀色に輝く指輪を見つめた。
「その指輪を外せないなら、重ねてつけてもらってもいいから」
 さっきとは打って変わった焦りの浮かぶ声。
 真一は、羽柴の顔を見上げた。
 泣き出しそうな顔の羽柴がそこにいた。
「跪いた方がいい?」
「・・・あなたって人は・・・」
 笑い出してしまいそうだった。けれども、実際真一の顔には涙が流れ落ちた。
「気は確かなんですか?」
「ああ」
「僕があなたから得られるものがたくさんあったとしても、あなたが得るものはないかもしれないのですよ?」
「そんなことはないさ」
「ひょっとしたら、あなたから大切なものを奪ってしまうのかもしれない。出世、仕事、子供、・・・命でさえ」
「覚悟してる」
「あなたがそんなリスクを負ってまでそうする理由が、僕には分からない!」
 羽柴の手が真一の手をそっと握った。
「君が俺のことを想ってくれているのと同じように、俺は君のことを想っている。俺が君から得られるものは、君にだって分かるはずだ。どれほど、素晴らしいことかを。違うかい? それは俺の思い過ごしなのか?」
  ── ああ・・・・。
 真一は瞳を閉じた。
 そうさ。何にもまして、素晴らしい。あなたを想っている時の僕は、これ以上にないくらい・・・。
 ふと真一は思い出した。幸せとは、こんな気持ちのことを指していうのかと。
「拒む理由なんか、何もない」
 羽柴はリングケースを作業テーブルに置くと、ドア口のブリーフケースからいくつかの本を取り出して、ソファーの上に置いた。すべて、真一の病気に関する専門書だった。薄いものから真一ですら知らない医学書まで、本当に様々。
「一緒に食事したって平気。一緒に風呂に入ったって平気。軽いキスだって平気。頬に触れたって、涙を拭ってやったって平気」
 そう言って羽柴は、再び真一に近づいて彼の頬を伝い落ちる涙を指で拭った。
「まったく、俺は君を泣かせてばかりいる。そうなんだろ?」
 羽柴は苦笑した。真一の額に自分の額をこすりつける。
「やり方さえ気をつければ、愛し合うことだってできるんだよな。 ── これでもまだ、駄目だって言うのか?」
 これが真一の限界だった。
 これ以上、どうやって拒めばいいというのだろう。
 新たな涙が、真一の目から溢れ出た。
「あなたは、間違っている・・・」
 羽柴が、不安そうに真一を見つめる。真一は羽柴の胸元を右手で掴みながら言った。
「僕の方が、よりたくさんあなたを想っているんです」
「受け取ってくれるんだな?」
 指輪を取り上げる羽柴に、真一が金のリングをそっと抜き取った。羽柴の顔に笑みが浮かぶ。
 しかし、羽柴が真一の左手を取っていざリングを嵌めようとして、途中で引っかかった。
「あれ?」
 押し込んでも入るような様子がないことは、一目見て分かった。
「自分より細いだろうと思って買ってきたんだが、案外それほど細くなかったか・・・」
 一気に顔が青ざめた羽柴に比べ、真一は涙ながらに笑い声を上げた。羽柴の好きな、あの聞き着心地のいい笑い声だった。
 思わずつられて羽柴も笑う。
「何だか格好悪いよな、俺」
 自分でそう言って、益々笑ってしまった。真一も、羽柴の胸を叩きながら笑っている。羽柴がこの笑顔に再び会えたのは、本当に久しぶりのことだった。
 出会って1ヶ月も経っていなかったが、随分長い道のりのように感じる。
 これだ。この笑顔がほしかったんだ。やっと手に入れた。やっと・・・。
 羽柴は笑いながら、真一の身体を抱きしめた。二度と逃げ出してしまわないように。



Nothing to lose act.07 end.

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編集後記

いやぁ~、本当にやっとここまできましたって感じです。すみません、長くて・・・(汗)。これからも、どんどん続きますよぉ。これからは、目くるめく甘々な世界が待ってるはず・・・。多分。図体のデカイ男同士の恋愛っすからねぇ。年齢も30越えてるし。それで甘々っすからねぇ。物凄い世界っすよねぇ。でもいんです。だってそういうのが、好きなんだもん!

[国沢]

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