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act.09

 正月三日が過ぎて、各省庁の仕事始めが来ても、羽柴は真一の店に姿を現さなかった。
 ── やっぱり無理だったんだよ・・・。
 真一は、左手の銀のリングを見つめながら、そう思った。
 羽柴を大切に思うほど、羽柴を遠ざけないといけなくなる。それを思うならいっそ、初めからなかったことにすべきなのか。
 生地にアイロンをかけながら真一は、店の片隅のマネキンに着せてある、仮縫いがすべて終わったタキシードを見つめた。
 ふいに辛さが込み上げてきて、真一は店の奥に引っ込んだ。
 仏壇の引き出しから煙草を取り出し、線香のところに置いてあったマッチで火をつける。長いこと置いてあったせいか、煙草は湿気ていて、なかなか火がつかなかった。
 縁側のガラス戸をあけて座り込み、ゆっくりと煙を吐き出す。
 病気のことを知るまでは、真一は時々煙草を吸っていた。煙草の味も感覚も忘れていたが、いざ吸ってみると、そのマズさに驚いた。
「何してるの? 寒いじゃない」
 母親が、部屋を覗き込んでいた。真一は素早く煙草を隠したが、立ち上る煙までは隠せない。
 てっきり以前のように怒られると思っていたが、意外にも母は、「私も一本ちょうだい」と真一の隣に腰掛けた。
「母さん、吸うの?」
 真一が目を見開くと、母は慣れた手つきで煙草に火をつけた。
「お父さんと結婚する前まではね。これでも母さん、よく遊んでたのよ。そこをお父さんに掴まえられたの。流行の撞球場で、昔は赤い玉と白い玉しかなくて。楽しかったわ」
 若い頃の母は、写真で見ても確かに美しい女だった。生活スタイルは今とまったく違うが、今の若者達と変わらない笑顔で、青春を謳歌していたのだろう。
 母は、おいしそうに煙を吸って吐き出すと、「うまくいってないの?」と訊いてきた。
 真一が口篭もると、母はちらりと横目で息子を見た。
「どうせあなたがつまらない意地張って、羽柴さんを怒らせたんでしょう」
 当たらずも遠からずな発言に、真一は目を丸くして母を見る。母は、やっぱりと大きく溜息をついた。
「私は曲がりなりにもあなたの母親よ。それぐらい分かるわよ。あなたは、変に頑固なところがあるから。どうしたの? 正直におっしゃい」
「 ── ちょっとそれは・・・。さすがに母さんでも、言いにくいよ」
 真一が俯くと、察しのいい母は、「ああ」と声を上げた。
「アッチのこと?」
「え?」
 真一が顔を上げる。
「襲って怒られたの? 断って怒られたの? ── ま、羽柴さんの性格を考えると、あなたが断って、羽柴さんが怒ったってとこでしょ」
 明け透けな母の言葉に、真一は顔を赤らめる。
「母さん、そんなこと言ってて、自分で気持ち悪くないの?」
 息子の趣向を良く思っていなかった母が、そんな台詞を言うこと自体、真一には信じられなかった。
「そんなの、当の昔に慣れました。あんた、最近じゃ男でも女でも、そういうの、流行だっていうじゃないの」
 そう言って、母は笑う。
「ドラマの見過ぎだよ」と真一は思わず呟いた。
「それで? あなたはどうするつもりなの? ずっと拒み続けるつもりなの?」
 真一は、煙草を咥えて煙を吐き出した。
「 ── もう根本的にダメなんじゃないかって・・・、そう思ってる」
「こんなに早く?」
 母は大げさに肩を竦めて見せた。
「すべての努力もしないまま、諦めてしまうの?」
「母さんには分からないよ」
「分かるもんですか。あなたしか解決できない問題なんだから。 ── でもね、真一。あなたがもう少し勇気を出せば、きっと今より上手に人を愛せるようになるわ。それをしなかったら、一生寂しいまま。いつかは母さんだって、居なくなるのよ。淑子さんがいなくなったように」
 真一は、目を見開いた。母の口から淑子の名前が出たのは、本当に久しぶりのことだった。そう、確か、真一の感染が分かって以来。
 真一は、思わず仏壇を返り見る。
 本当は、とっくの昔に枯れているはずの黄色いチューリップが、そこに生けられてあった。真一が買い換えた覚えがないのだから、それは、間違いなく母が買ったものにちがいなかった。
「母さん・・・、どうして・・・」
 母は、まるで少女のような微笑を浮かべた。
「私もね、少し勇気を出してみたのよ。前向きな羽柴さんやあなたを見てたらね。憎しみを持ったまま、死んでいくのが空しくなって。そう思ったら、淑子さんの気持ちがやっと分かったような気がするのよ。どんな気持ちで、あなたを残して逝ってしまったのか・・・。あなたは、淑子さんのためにも幸せにならないといけないんじゃないの? 母さんはそう思う」
 真一は、声もなく頷いた。何度も何度も頷いた・・・。


 糸きりバサミがパチンと音を立てて糸を切った。
「・・・できた」
 真一は椅子から立ち上がって、漆黒のジャケットを目の前に翳した。
 羽柴のタキシードは、自分でも満足のいく出来に仕上がった。
 羽柴とは、相変わらず話せていない。
 会ってもいないし、電話も通じなかった。
 だから、真一のできることといえば、羽柴から頼まれたものを仕上げることしかなかった。
 だが、真一はそれで十分だと思っていた。そうすることが、一番自分の気持ちを表現していると感じたからだ。
 服をオーダーする人間とそれを作るテーラーが心を通じあわさないと、いいものはできない。
 羽柴との大切な時があったからこそ、今までで最高傑作といえる服が仕立てられた。
 冷たくあしらわれても構わない。終わりを告げられる覚悟も少ししている。でも、これだけは、早く羽柴に届けたい。
 真一は少し迷ったが、結局羽柴の会社まで出向くことにした。


 できれば手渡ししたかったが、日頃の羽柴の忙しさは聞いていたから、とりあえず受付に預ければ・・・と真一は新宿駅に降り立ち、羽柴の会社のビルを目指した。
 巨大な総合オフィスビルの案内板を真一は見上げる。5階から13階までが羽柴の会社だ。
 真一がエレベーターに乗り込むと、複数の男女が乗り込んだ。皆、黒いスーツバッグを持っている真一に、特異な視線を向ける。確かに、チャコールグレイのスラックスにベージュのダッフルコート姿の真一は、場違いに見えた。
 色とりどりの制服を着たOL達は、真一の顔を盗み見ている。
 彼女達の興味は、到底会社員には見えない端正な容姿をした青年が、どの階で降りるかということに集中しているようだった。
 直に5階がやってくる。
「あ、すみません、降ります」
 一番奥に立っていた真一は、好奇の視線を掻い潜りながらエレベーターを降りた。今度は、受付嬢達の視線に晒される。
「お忙しいところ、すみません」
 真一が声をかけると、「はい」と二人いる受付嬢が同時に答えた。真一が少し笑うと、受付嬢達は顔を赤らめながら、互いに睨みあった。
「須賀テーラー店ですが、羽柴さんにこれを渡していただきたいのです」
 真一が、スーツバッグを少し持ち上げると、「スーツ屋さんなんですか?」と若い方の受付嬢が訊いてきた。彼女の方が真一より離れた位置に座っていたが、積極性は上のようである。
「まぁ、正確には仕立屋なのですが」
 真一が朗らかな微笑を浮かべ答えると、「わぁ、素敵」と高い声を上げた。
 その素敵には、テーラーという職業に対する憧れと、ふいに浮かべた真一の笑顔に対する感想も入っている。受付嬢二人は、最早仕事そっちのけで真一を質問責めにして丸裸にするつもりのようだ。
「お店はどちらにあるんですか?」
「浅草の方に」
「意外! 下町って感じですね」
「祖父の代から続いているものですから」
「すご~い。女性物の洋服もできるんですか?」
「ええ。ご希望のデザインでできますよ」
「素敵ねぇ~」
 二人が互いに手を併せて溜息をつく。
「で、お付き合いしている方はいらっしゃるんですか?」
 ふいに確信をつく台詞が飛び出して、真一はクスクスと笑った。銀のリングを彼女達の前に翳す。受付嬢達が一気に意気消沈する様子が、手に取るように分かった。だが、諦めきれないのか、若い方の受付嬢が、更に質問してくる。
「羽柴さんが、オーダーメイドでスーツ頼んだんですか?」
 彼女の興味は、真一と羽柴の関係に移ったようだ。
「ええ。お店に直接来られまして」
「そうなんだぁ・・・」
 アナリスト部の羽柴といえば、女子社員の間でも高嶺の花(男で花というのもなんだが)と評判の男である。背も高いし、高給取り。年度末には海外派遣も決まっているという出世頭だ。今時の軟弱な若手男性社員の中にあって、唯一「男らしい男」である。
 その憧れの羽柴と目前の美形テーラーが、立ち話している場面を想像しただけで、何かわくわくしてくる。
 そんな複雑な女心を、真一が理解できる訳がない。
「あの・・・、渡していただけますか?」
 空想の世界に入り込んでいる受付嬢に、真一はもう一度確認するように言った。
 受付嬢の目に、急に生気が戻る。
「今、羽柴をお呼びしますから、あちらの椅子にかけてお待ちください」
 一人がそう言った途端、もう一人がひそひそ声で抗議する。
「いいの? 上でまたバタバタしてたら、羽柴さんそれどころじゃないじゃないの」
「いいんです! 二人のツーショット、見たくないんですか?」
 「あ・・・、あの・・・」と真一が戸惑っていると、 「お待ちください」と今度は受付嬢二人にきっぱりとそう言われ、真一は椅子に腰掛けることにした。
 少しして、若い方の受付嬢が真一のもとまでやってきた。
「すみません、あいにく羽柴は手が塞がっておりまして・・・」
「あ、そうですか」
 真一は明るく答えたものの、内心少し落胆した。だが、そんなことは分かっていたじゃないかと自分を叱る。
「では、これを・・・・」
 スーツバッグを預けようとした手を受付嬢に止められた。
「上まで直接届けに来てくれと申しておりますので、ご案内いたします」
 真一は一瞬きょとんとした。
 どうやら、あちらも真一に伝えたいことがあるらしい。
 正直真一は、自分が緊張を募らせていくのを感じた。
 受付嬢に連れられて、真一は8階でエレベーターを降りた。途端に、音の洪水に襲われる。
 電話のベルの音、怒鳴り声、パソコンのハードディスクが動くノイズ・・・。
 廊下から、ガラス張りの仕切りの向こうに見える部屋は、まさに戦場だった。ガラスには、『トレーダー部』と黒い文字が貼り付けてある。
 真一がその様子に圧倒されていると、受付嬢が、「申し訳ありませんが、こちらで少しお待ちください」と自販機前のカウチを差した。
「ああ、ありがとうございます」
 正気に戻った真一は、カウチに腰掛けた。人工の観葉植物越しに、トレーダー部が見える。
 真一はその中に、羽柴の姿を見つけた。
 初めて店に来た時のように、ワイシャツを腕まくりして、刻々と数字が変わる電光掲示板を睨みつけていた。今までに見たことのないような、獰猛な目つき。顔は少し汗ばんでいるようだ。真一のところまで熱気が伝わってくる。
 羽柴が、身体の向きを変えて怒鳴った。怒鳴っている内容までは分からなかったが、緊迫した雰囲気は十分感じることができた。
 久しぶりの愛しい人の姿を見て、変な緊張も一瞬忘れて見入ってしまう。
 忙しく立ち回る羽柴の姿を見て、ああと真一は思い出した。
 俺はアナリストだが、時々トレーダー部にも呼び出されることがあるんだ。
 トレーダーをやっていると、あまりにハードすぎて、人間の価値観が分からなくなってしまう・・・。
 羽柴の言っている意味が、やっと本当に分かったような気がした。
 確かに、あのような嵐のようにがさついた空間で、目に見えない大量の現金を己の感に頼りながら瞬時に動かしていくことを四六時中やっていたら、少々おかしくなったって不思議はなさそうだ。
 激しい身振りで羽柴が動く。羽柴の出した指示に従い、数人の男が動いた。互いに怒鳴りあい、エゴをぶつけ合いながら、事態を収拾していく。
 ふいに室内の動きが止まった。少し間が空いて、次の瞬間、室内全員の肩の力が抜けた様子が見て取れた。どうやら問題は解決したらしい。
 羽柴は、真一に気づいていないようだった。 室内にいた女性社員の一人が、額の汗を拭いながら煙草を咥える羽柴に耳打ちをする。そこでようやく羽柴は、真一がトレーダー部の近くにある休憩所で待たされていることを知ったらしい。
 羽柴は煙草を咥えたまま、血相を変えて部屋を出てきた。
「こんなところで待たされてたのか? 俺はてっきり、アナリスト部まで案内されてるものだと思ってた」
 羽柴の第一声は、いつもと変わらないものだった。
 いささか覚悟をしていた真一も、少し拍子抜けしてしまう。
「ああ、案内してくれた受付の子が、羽柴さんの姿を見つけたからだよ、きっと」
 つられて何気なしそう答えた。
 こうしていると、この間のケンカが嘘のように思えてしまう。
「この前は、すまなかったな。本当は電話をかけたかったんだけど、携帯を水没させてしまって。おまけに家の電話は、自分で壊しちゃったし」
 真一の左側に腰を下ろしながら、ハハハと羽柴は笑った。だが、すぐに真顔になる。
「この間は、本当に悪かった。俺が急ぎ過ぎた。自分の感情だけ、押し付けてた」
「いえ、こちらこそ・・・。例え断るにしても、あんなにあなたを傷つけるような断り方は・・・。僕も反省しています」
 羽柴が、安心したように微笑む。
 安心したら、急に周囲の様子が気になり始めたらしい。
「しかし、客を案内するにしても、よくこんな寒いとこに案内するよな。どのくらいここで待たされてた? 随分冷えたろ?」
 羽柴はそう言いながら、胸のポケットから煙草を抜き取って咥えた。だが煙草に火をつけようとして、ふいにやめる。羽柴は、ライターと煙草をワイシャツのポケットに突っ込んだ。なぜか羽柴は、真一の前では煙草を吸わない。
「羽柴さんこそ、そんな格好で寒くないんですか?」
 腕まくりしたままの羽柴の姿を見つめ真一がそう言うと、羽柴はちらりと真一を見て、「耕造って呼べよ」と言った。思わず真一は顔を赤らめる。
「だって、会社じゃないですか」
「誰も聞いてないからいいだろ」
「もう・・・。しょうのない人だな」
 羽柴が、クックッと笑った。真一をからかうことが面白くて仕方がないらしい。その横顔に、真一は言った。
「でも、あなたの戦っている姿を見て、少し感動しました」
 ふいに羽柴が笑うことを止めた。真一を見る。
「ここが、あなたの戦場なのですね」
 羽柴が、何ともいえない表情を浮かべる。唇が何かを言おうとしたが、言葉が浮かばなかったらしい。羽柴の手が真一の膝にあった彼の左手を取って、カウチの下に引っ張った。そうしてキュッと握ってくる。羽柴の手は、少し汗ばんでいて震えていた。
 真一は、その手をそっと握り返す。羽柴の横顔に視線をやると、羽柴は静かに瞳を閉じて、2、3回深い呼吸を繰り返していた。
 羽柴の気が済むまで、こうしていてあげよう。真一は、ただ黙って手を羽柴に預けていた。ふいに羽柴の震えが止まり、羽柴は手を離す。
 すっきりした顔の羽柴が、真一を見てにっこりと笑った。
「飯、もう食ったか?」
「え? まだです。これを仕上げていたら、すっかりタイミングを逃してしまって」
「丁度よかった。俺もまだなんだ。一緒に食おう」
「じゃ、これ、今渡しておいてもいいですか」
「ああ」
 羽柴がスーツバッグを受け取って立ち上がった。ジッパーを下げて中を覗き込む。
「すごいな。世界にこれ一着なんだよな」
「ええ、そうですよ。本当なら、年末までに仕上がる予定でしたけれど、遅くなってすみませんでした」
「そんなことはいいんだ。遅くなる代わりに、もっといいものを手に入れたから」
 真一は、一瞬羽柴が何を言っているのか分からなかったが、その意味が分かった瞬間、再び顔を真っ赤にした。
「これ、デスクに置いてくる。少し待っていてくれ」
 羽柴は真一の髪の毛をくしゃくしゃっとかき乱すと、スーツバッグを持って廊下の奥に姿を消した。


 羽柴が案内してくれた店は、ホテルの2階にあるフレンチレストランだった。クラシック音楽がかかってあるような店である。
「いつもこんなところに来てるんですか?」
 気後れした真一が、席についたなり、小声で羽柴に訊く。羽柴は、「まさか」と肩を竦めた。
「恋人の為に少し格好つけたのさ」
 そう言ってペロッと舌を出す。緊張気味の真一も、さすがに羽柴のその仕草に笑ってしまった。
「ランチはもう終わってるからな・・・」
 羽柴がメニューを見ながらガリガリと頭を掻いた時である。ふたりの座るテーブルの横に人影が立ったと思ったら、あっという間に羽柴は頭から濡れ鼠になっていた。
 ぎょっとした真一が顔を上げると、市倉由香里がコップを逆さにして、羽柴の頭の上に翳していた。
 当の羽柴は、きょとんとして由香里を見上げている。
「よくもまぁ、のうのうとここに顔を出せたわね」
 完全に座りきった目で羽柴を睨みつけながら、由香里が言う。
「ここは君がオーナーのお店だったっけ?」
 顎から氷水を滴らせながら、羽柴は由香里を見上げた。水をかけた由香里よりも、かけられた羽柴の方が落ち着いていた。だが、寒さには負けたらしい。「くしゃん」と羽柴の口からくしゃみが飛び出る。
 真一は素早く席を立つと、ウエイターにタオルを持ってきてもらうよう頼んだ。そしてタオルを受け取ると、羽柴の背後に回って素早く頭をごしごしと拭いた。羽柴は「すまん」と言って、すっと真一の手に触れてから後、真一からタオルを受け取った。
 由香里はその様子が気に入らないらしい。
「ちょっと、何してんのよ! 恋人同士じゃあるまいし、気持ち悪い!」
 攻撃するつもりが、結果的にその台詞は、彼女を傷つけることになった。
 その台詞に強張る真一を見て、その台詞があながちでたらめでないことに気づいたからである。
「何よ、そうなの? あたしをフッた理由って、そんなこと?」
「ああ。そうだよ」
 羽柴がタオルを首にかけた格好で、あっさりとそう答える。
 由香里は一瞬眩暈を覚えたように、身体をぐらつかせた。
「危ない!」
 真一がその身体を支えたが、手厳しくその手を叩かれた。
「やめてよ! 汚らわしい! あんた、ホモだったの?!」
 今度は真一を睨みつけて、由香里が怒鳴る。
「道理でアタシがキスしても反応がないと思ってた。どうやって羽柴を誘惑したのよ! 泥棒猫!」
「由香里!」
 羽柴が立ち上がる。
「真一は悪くない。こいつを責めるのはやめろ」
「何よ、格好つけちゃって。あんたなんてねぇ、エイズで死んじゃえばいいのよ!」
「由香里!」
 羽柴が素早く、真一と由香里の間に割り込んだ。羽柴は今までに一番動揺した顔つきで、真一の表情を伺っていた。
 何ともいえない気まずい雰囲気。由香里は、自分がとんでもない箱の蓋を開けてしまったことに気が付いた。
「 ── 本当に、エイズなの?」
 真一は空を見つめたまま、しばらく無表情でその場に立ち尽くしていた。
「そうなのね? あんた、エイズなんだ」
 由香里は、顔を青くする。彼女は自分がこの男とキスをしたことを思い出していた。
「人殺し・・・。人殺し!!」
 金切り声で由香里が叫ぶ。この台詞に、今まで知らん振りを決め込んでいた他の客も、一斉に由香里と羽柴と真一に目を向けた。
「あんた、それを知っててアタシとキスしたの?! うつってたら、どうするつもりよ!」
「何をバカな・・・!」
「いいんです」
 羽柴を制して真一は由香里の前に立った。穏やかな瞳が由香里を写していた。
「確かに、不用意に貴方に近づいたことは謝ります。貴方にそうさせる隙を、僕は作り出してしまった。もっと気をつけるべきでした。すみませんでした」
「な、なによ・・・、謝ってもらったって今更遅いわよ」
 涙ぐみながらそう言う由香里に、できるだけゆっくりと静かに、真一は言った。
「あの時のようなキスでは、絶対にうつりません。貴方は、感染していない。安心して」
「ホントに?」
 真一が頷く。
「でも、でも、そしたら、こういうこと? 羽柴、あんたはそれも承知の上で、この男と付き合ってるの?」
「そうだよ。悪いか」
 由香里の真一に対する発言のせいでかなり不機嫌になっている羽柴は、憮然とした表情でぶっきらぼうにそう答えた。
 由香里の口が戦慄く。
「あっ、あんたら、バカじゃないの? どっちにしろ、こいつは、この男は人殺しじゃないの?! こんな男に、盗られたっていうの?」
 そんな敗北を、彼女は絶対に認めることができなかった。過去、数々の男を都合よくフッてきたことはあっても、こんな形でフラれたことはなかった。女を武器に、女としてのプライドだけで生きてきた彼女にとって、こんな敗北は、許せなかった。
「変態!」
 由香里はそう言って、真一の横っ面をいきおいよく叩いた。
「真一!」
 羽柴が真一を見ている間に、由香里は逃げるようにレストランを出て行った。
「あいつ・・・」
 羽柴が低く唸る。と、その羽柴の横に、先ほど真一にタオルを渡したウエイターが立った。
「すみません、お客様。他のお客様の迷惑になりますので・・・」
 羽柴が、信じられないものを見るかのようにウエイターを見た。
 迷惑になっていたのは、さっきのことだ。本来なら、由香里と言い争っている間に、そう言われるのが筋である。言い争いの相手もいなくなった今、何が迷惑というのだろう。
「何言ってんだ、あんた」
 そう言う羽柴の腕を、真一がそっと押さえた。真一には、ウエイターの言っている意味がよく理解できていた。周囲の客の自分を見つめている視線を見れば、迷惑の原因が自分にあるということは十二分に分かる。
 羽柴も、真一の視線を追ってやっと気がついたらしい。
「 ── こんな店、こっちから願い下げだ。出よう」
 羽柴は、首のタオルをテーブルに叩きつけると、真一を周囲の視線から守るように、真一をレストランの外までエスコートした。


 「何て店だ。つーか、このホテル自体がそうなのか」
 エレベーターで1階のロビーに降り立ちながら、羽柴は悪態をつく。
「くそ、腹立つな。こんな露骨な差別が、未だにあるってのか?」
 あたり憚らず、羽柴は唸る。
 一方真一は、穏やかな微笑を浮かべたまま、苛立つ羽柴の背中にそっと手を置いた。
「人間として、正直な反応なんですよ、あれが。もっと酷い話も聞きますから。それより、このままだとお昼じゃなくて、早めの夕飯になってしまいそうですね」
 羽柴は内心、真一に対して苛立っていた。
 ── 自分のことなのに、どうしてもっと怒らないんだ。どうしてそんなに平然といられる?
 羽柴は振り返る。そしてぎょっとした。
「真一、口、切ったか?」
 真一の唇の端に血が滲んでいた。
 羽柴が触ろうとしたところを、真一の鋭い声が止めた。
「触らないで!」
 ヒステリックな声だった。
「絶対に、触らないでください!!」
 まるで悲鳴だった。
 羽柴は、やっと気づく。
 平然としているんじゃない。感情が、動いていない訳じゃない。こんなことを繰り返して、こいつは、耐える術を覚えたんだ。病気のことはもちろん、同性にしか興味を持てないことについて、今までいろいろな視線に晒されてきて、その中で生きていくには、自分を押さえ込むしか方法がなかったんだ。
 それに気づいた時、羽柴は自分の方が泣きたい気持ちになった。無性に、胸が痛かった。
 羽柴は、真一の両手を押さえると血の滲む真一の唇に自分の唇を重ねた。ただ、真一を救いたかった。
 ホテルのロビーのど真ん中、人々が自分達を見つめている。だが、そんなことは羽柴にとって、些細なことだった。
 真一の身体が震えている。
 キスをやめても、真一は怯えるように震えながら、羽柴を見つめていた。羽柴の顔と、羽柴の唇についた自分自身の血を代わる代わる。
 その目の前で、羽柴が唇についた血を舐め取る。
「何てことを!!」
 真一が羽柴の胸を両手の拳で叩いた。その手を羽柴の大きな手が包んだ。
「俺はな、真一。お前の血液ごと、お前を大切に思っているんだ」
 真一が目を見開いた。その瞳から、大粒の涙が零れた。どうやら、限界だったらしい。真一は、嗚咽を堪えながら泣いた。身体も息も震えつづけていた。
 羽柴は、真一をそっと抱き締める。その耳元に羽柴は囁いた。
「お前を抱いてもいいよな。もう我慢しなくていいよな」
 真一が、言葉もなく頷いた。
 何度も何度も小さく頷いた・・・。


 深夜の11時。
 羽柴はやっと帰宅することができた。
 近々迫っている市場動向研究会の資料をまとめる作業に追われていたのだ。
 その研究会には、国内の企業投資家のみならず、海外のトレーダーや投資家も参加する予定の大規模なものだ。その中で羽柴の担当する予定のレポートは、プログラムの終盤にスケジュールが組まれ、会社の代表としての期待をかけられていることを物語っていた。
 真一は、待っていてくれているだろうか。
 ホテルのロビーでの一件の後、すぐさま合鍵を作りに行って、真一に手渡した。「遅くなると思うが、できれば家で待っていてほしい」と言って。
 真一は頷いてくれたが、正直羽柴は不安だった。
 真一が今までどんな気持ちで自分を拒み続けてきたかは、羽柴にだって十分分かっていた。いくら気をつけてセックスをしたって、うつる危険性はある。羽柴が自分のせいで感染したとなると、真一はどうなってしまうのだろう。
 だが、そんなリスクを犯しても、羽柴は真一が欲しかった。
 今まで羽柴は、セックスに対してそんなに意味を見出してはいなかった。過去付き合ってきた女性をそれなりに愛してきたが、セックスに関しては、性欲処理といった感覚がどうしても先立ってしまい、そこに愛を感じていたかと聞かれると、そうですと答える自信は、羽柴にはなかった。
 だが、真一とのセックスは今までのものとまったく意味が違う。
 相手が同性であるということはもちろんだが、そうすることで、初めて大切なものを手に入れることができるという気がしていた。
 細長い廊下を歩いて、突き当たりのリビングに出ると、明かりはついていなかった。
 ── やっぱり駄目だったか・・・。
 羽柴は溜息をつきながら、手探りでスイッチに手を伸ばす。
 明かりがついて、ぎょっとした。
 リビングの中央に置かれたローテーブルとソファーとの間に床に、真一の身体が横たわっていた。
 ── 倒れたのだろうか?
 羽柴は顔を青くして鞄を放り投げると、真一の元に駆け寄った。
 顔を覗き込むと、真一が穏やかな寝息を立てていることに気が付いた。羽柴は、天井を見上げて今度は安堵の溜息をつく。
 床暖房が設置されている温かいフローリングの上に寝っ転がるうち、つい居眠りしてしまったのか。
「・・・また、お預けか」
 真一の穏やかな寝顔を見つめてそう言う羽柴だったが、その顔は嬉しそうに微笑んでいる。
「いつまでもここじゃ、風邪ひくな・・・」
 羽柴はコートを脱いでソファーに置くと、真一の身体を横抱きして、リビングの隣にある寝室に運んだ。真一を抱き上げたまま、器用にドアを開けて、セミダブルのベッドに横たえる。「う・・・ん」と唸り声を上げる真一の声に苦笑いしながら、掛け布団をかけた。
 羽柴は、暖房のスイッチを入れた後、光の量を絞って明かりをつけると、備え付けのクローゼットを開けて、脱いだスーツをハンガーにかけた。ネクタイを取り、ワイシャツを脱ぐ。
 ふと裸の背中に視線を感じて、羽柴は振り返った。
 布団を鼻先まで引き上げた真一が、顔を赤くしていた。
 羽柴と視線がぶつかると、「ごめんなさい、盗み見たりして」と言って、布団を被った。
「何言ってるんだよ」
 羽柴はベッドまで近づくと、掛け布団を引き下げた。
「お前に見つめられて、俺としては大変光栄なんですけど? もっと見るか?」
「バカ!」
 顔を真っ赤にしたまま、真一は視線を逸らす。
「待っててくれたんだよな?」
 羽柴は真一の熱い頬に軽く口付ける。
「今からでも、構わないかな?」
 そう言って羽柴は、真一の顔を捉えて自分の方に向かせると、深く唇を併せた。
「 ── はっ」
 唇が離れると、真一は短く息を吐いた。真一の瞼が開くと、少し潤んだ瞳が現れた。羽柴はドキリとする。
 ── なんて眼をするんだ・・・。
 羽柴の心臓が高鳴る。
「やめてって言っても、もう止められないぞ・・・」
 羽柴はそう言って、ベッドに上がった・・・。

以下のシーンについては、URL請求。→編集後記



Nothing to lose act.09 end.

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編集後記

ついに、ついに、ここまできちゃいました。ホント、お待たせいたしましたと言った方がいいですかね(汗)? これ以上突っ込んだ話を公開するとなると、アダルト禁止サーバーに間借しているがゆえ弊害が生じてきますので、18歳以上の方に限りこの続き(いわゆるソノシーンのみ)をメール配信いたそうと思います(大汗)。ここのシーンを読まなくても、次回の話の展開には支障はありませんが、真一と羽柴の間の、心のふれあいが結構重要かなって思うので、興味を待たれた方は読まれた方がいいかなぁ・・・とも思います。
なお、ご請求いただいたアドレスには、当サイトの大人シーンを全て掲載していく予定ですので、一度請求するだけで当サイトに公開中の全ての小説の大人シーンが閲覧可能となります。
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[国沢]

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