irregular a.o.ロゴ

nothing to lose title

act.04

 <トイレで芽生えることもある>

 それから一週間ほど経ったある晩、雄大のもの覚えの悪さに、バンドメンバーは突如合宿を開くことになった。姫の発案である。
「そりゃ、悪いと思うよ。簡単なコーラスだって判るけど、でもドラム叩きながらのコーラスって、初めてなんだもん」
 雄大は相変わらず、ごねている。
 カーテンを開ければ、窓の外は闇。軽音部の部室はバンドメンバーのみが居残りしている。その中で真司の姿だけ見えない。
「何言ってるの、雄大! ギグまであと1ヶ月もないんだよ! 芳君だって一生懸命努力してるってのに、バカチンか、お前はぁ!」
 姫の厳しい激が飛ぶ。またもや半ベソ状態の雄大である。
「とにかく雄大。ここは練習あるのみだ。皆がこうして突き合ってくれてるんだから、一緒に頑張ろう」
 彰が、リーダーらしくもっともなことを言う。が、雄大は、それを聞いて益々ごねた。
「じゃぁ態度で示してよぉ。ちっとも一緒に頑張るって雰囲気じゃないじゃなぁ~い」
 確かに。
 さっきあんなに泣かせることを言った彰は、床に引いたエアーマットの上に寝っころがって、さっきからイヤホンで昼間録音した株式市場の動きを聞いている。姫は姫で、この前買った洋服のお披露目ファッションショーをしているし、健史はといえば、明日の小テストのヤマを芳に予想してもらっている。
「こんなんじゃ、僕、益々できないよ」
 ぼそりと雄大が不平をこぼした時、部室の扉が開いた。
「何泣き言言ってやがる。締めるぞ、てめぇ」
「わぁ、真司君、袴姿だぁ!」
 万喜子が黄色い声を上げた。
「あ、真司。稽古終わったの」
 彰がイヤホンを取って身体を起こした。
「ああ。道場からそのまま来た」
 部室に入ってきた真司は、芳の隣の床に腰を降ろした。芳がスンと鼻を鳴らす。
「ワリ。汗臭ぇだろ」
「ん。少し。でも、悪くないよ」
「そっか?」
「うん」
 芳は少し視線を感じて、その方向に視線をやる。万喜子姫が、グッと親指を立てたのを見て、芳はテレくさそうに微笑んだ。
  姫に本当の気持ちを知られてからというもの、芳の中の変なわだかまりがなくなった。真司に告白する勇気はまだなくても、ごく自然に真司と会話ができ始めたし、素直に感情が表現できるようになった。
「それにしても腹減った。なんか食うものないか?」
 真司のその一言に、姫がジャンプする。
「待ってました、その一言! ちゃんと仕入れてあるんだな、これが。健史君、早く早く」
「ほいほい。さっき、買ってきたんだよ。コレ」
 健史が、どでかいクーラーボックスの中から、タレに漬かったカルビ肉が満杯に入った袋を取り出した。
「おい、何だそれ。ここで焼き肉するのか」
「その通り! ほら、アレ出してきて」
 姫がそう叫んで、雄大に命令する。雄大は渋々部室の奥からストーブを引っ張り出してきた。あまりのことに、芳がプッと吹き出す。
(前から変わった連中だって聞いてたけど、ホントに凄いな)
「お前ら、焼き肉すんのはいいけど、こんなきたねぇストーブの上で直接焼いた肉食うのか? ちゃんと鉄板とか用意してんだろうな」
 流石、家で主夫してる真司だ。なかなかチェックが細かい。他の連中はと言えば、この焼き肉作戦の仕入れに参加してない彰を除いた三人が、一様に「あ」と顔を青くした。
「やっぱそんなことだろうと思った」
 真司が頭を抱える。その向こうでは姫が、男二人の頭を小突いている。
 その光景が何ともおかしくて、芳は遂に腹を抱えて笑い出した。あまりにおかしすぎて、床に転がる。
「おいおい、ほら、小泉が壊れたぞ」
 真司のセリフが、芳に追い打ちをかける。
「アハハハッ! もっ、もう勘弁して・・・。おかしくて、気が狂いそう・・・」
「あ~あ、飯は食いっぱぐれる。ヴォーカルは壊れる。散々だな、この合宿」
「アッハッハッ! お腹が痛い・・・。笑いすぎて・・・」
 芳は、呼吸ができなくなって、ヒイヒイと呻き声を上げた。
 と、健史は人差し指を立てる。何かアイデアが浮かんだ証拠だ。
「お、健史君、何か浮かびましたかな」
 彰が健史を覗き込んで言う。
 健史は、いつもの呑気顔で言った。
「この中で、アルミの弁当箱持ってる人、いない?」
「弁当箱ぉ?」
 一同そう声を合わせる。
「そ。アルミの弁当箱の蓋とかで、板の代わりにすんの」
「おお。それ、いけてるかもしれない」
「真司はいつも何か買って食ってるよな。俺も今日は学食だったし、彰先生も今日学食で会ったよな。姫は?」
 健史に指差され、万喜子は肩を竦める。
「アタシのお弁当箱、バスケットの中にプラスチックの箱が入ってるの。芳君は?」
「え? ああ。俺の弁当箱もプラスチック」
 皆の視線が雄大に集まる。雄大の顔がクシャクシャになった。
「僕の弁当箱、アルミぃ~」
 まるで、この世の終わりといった顔つきである。それを見て、再び芳は笑い転げ始めた。後のメンツは、暴れる雄大を取り押さえ、無理矢理雄大の弁当箱を強奪する。
「ほら、早くストーブつけちゃって! 一回お肉焼いちゃったら、きっと諦めるから」
「キャー! 姫、やめてよぉ! 酷いよ~」
 雄大の悲鳴をよそに、彰が淡々とした様子でストーブに火を入れて、その上に雄大の弁当箱をおいた。
「雄大、お前きれいに飯食ってるねぇ」
 なんていいながら、弁当箱の中に、肉屋で貰ったラードを入れる。
「やめて、やめて! またお母さんに叱られちゃうよぉ!」
 雄大がいくら暴れても、彼を取り押さえている男は、学園一の魔人と言われる男なのだから、無駄な抵抗というものだ。
「もう頃合かな」
 彰が、すっかり温まった弁当箱に肉を入れると、ジュウという音と共に肉の焼けるいい香りが室内に立ちこめた。
「お、焼けてる、焼けてる」
「キャー! やめてー!」
 雄大の悲鳴が頂点まで達する。
「あ、もういいみたい」
 丁度レアな感じのうまそうな肉を摘み、万喜子が雄大の口元にそれを差し出す。
「ハイ、雄大君、あ~んして、あ~ん」
「え~」
「ハイ、あ~ん。ハイ、あ~ん」
 万喜子の声につられ、口を開ける雄大。そこに肉を放り込まれ、雄大は仕方なく咀嚼する。
「雄大君、おいしい?」
「うん。おいしい」
「はい。アンタも共犯ね」
 姫がそう言った途端、真司が雄大を放す。最初はポカンとしていた雄大だが、直にまた騒ぎ始めた。
「うわぁ~ん! またハメられたぁ!」
「人聞きの悪い。おいしいっつったじゃん、今」
 姫や健史は、雄大の相手をすることをすっかりやめ、肉のお世話を始める。
「おい、真司」
 彰が、クーラーボックスからよく冷えた缶ビールを取り出し、真司に放り投げてくる。
「おっ、サンキュ」
「小泉も、どうぞ」
「あ、ありがとう」
 芳は、ビールを受け取りながら、プルトップを開ける真司を見た。
「芹沢達って、いつもこんな調子なの?」
 ビールに口をつけかけた真司が、「ん?」と芳を見やる。
「ああ、まぁな。大体いつもこんな感じでバカやってるよ。その内お前も一味に加えられるからな。覚悟しといた方がいいぜ」
「楽しみにしてるよ」
「お、強気だな」
「まぁね」
 芳のこのセリフに、真司がニッと笑う。そうして一気に缶ビールを飲み干した。
「カーッ! やっぱ稽古の後のビールは最高だな」
 真司は、ハーと大きく息を吐く。その豪快な飲みっぷりに見とれていた芳は、一言感想を漏らした。
「芹沢って、本当に旨そうに飲むね」
「だって、マジで旨いもん。お前、飲まないのか、普段」
「えー? そりゃ少しは飲むけど、そんな飲み方はしないよ」
「ふーん。・・・おいっ、何だがコゲくせぇぞ!」
「ごめぇ~ん。焦がしちゃったぁ」
 底が黒く煤けてきている雄大の弁当箱から、白い煙がモクモクと上がっている。
 芳がひどく咳込んだのを見て、真司はガバリと立ち上がった。
「おい、窓開けろ、窓! 窒息死するぞ」
 真司はそう言って、手当たり次第窓を開け、外の空気を吸う。秋の涼しい風が、真司の頬を撫でた。
「ごめん、芹沢。助かった」
 真司の隣から窓の外に顔を出して、芳が言う。
「最近、ホントによく思うけど、芹沢って、結構こまめに優しいトコあるよね」
 芳がそう言って、真司に新しいビールを手渡す。
「なんだよ、急に変なことヌかすな。驚くじゃねぇか」
 ビールはしっかり受け取りながらも、窓の外を向いたまま、真司は言った。いきなり不機嫌そうな顔つきだが、少々その頬が赤いのは気のせいか。
「何だよ。怒ったのかよ」
 ビールを口に含みつつ、表情を曇らせて芳が真司の顔を覗き込む。その表情を見て、真司はバツが悪そうに顔をしかめた。
「別にそんなこと言ってねぇだろ。調子狂うな」
 真司は、そう早口でまくし立てて、また一気にビールを煽った。芳も同じように一缶空ける。そしてこう訊いてきた。
「なぁ、何で芹沢ってバンドやってんの?」
「え?」
「だって大変だろ? 部活と剣道の両立なんてさ」
「ああ・・・」
 真司は考え込む。そういえば、そんなこと真面目に考えたことなかった、というような心境で。
 二人の間の暫しの静寂。ふいに、秋風に木立が揺れる音しかしていなかった戸外の闇の中、一台の救急車がサイレン鳴らして通り過ぎて行く。
 ああ、そうか・・・。
 何となく答えが浮かび上がったような気がして、真司は取り留めもなく、独り言を呟くように言った。
「俺って毎日、死にそうな気分で剣道してるんだよな」
「え?」
 真司のその言い草に、芳はギョッとする。
「多分、誰にも解ってもらえないだろうと思うけど、斬られたら終わりっつーか、気を少しでも許したら死んぢまうっつーか。なんか、うまく言えねぇーけど、剣道してる時って、そんな限界ギリギリのライン歩いてるんだ。俺って」
 芳は、道場にいた真司の姿を思い起こす。
 獣の声のような居合い。剃刀のような気迫。滴る汗は、血のように見えた。
「その瞬間って、すげぇ満たされてるんだけど、その反面すごくガサついてて・・・。普通じゃねぇんだよな、剣道やってる時の俺って。この髪伸ばしてるのも、どうしても勝てない霧島さんに勝つまではって願掛けしてるからだし。今時、そんなこと真面目にやってるヤツって、そうはいないだろ? だから、あそこでストーブに集ってる奴らも、うっとうしいから髪切れとは絶対に言わないし、俺の剣道の試合は一回最初に見に来ただけで、それから一切見に来ようとしない。まるで憑かれてるみたいで恐いとさ」
 芳は、あの日の張りつめた空気に引き戻されたような気がして、息苦しさを感じた。
「だから、俺にとってこの部活って、息抜きなんだよな。ガサガサに渇いたとこを癒すっつーか、包み込むっつーのか・・・。バランス取ってんだと思う。学校に来ることとかバンドするってことで」
 真司はそこまで言って、ビールを取りに行く。彼は2本取ってきた内の一本を芳に手渡し、自分は、開けたてのビールで少し口を湿らせてから、更に言葉を続けた。
「剣道の師匠には、バンドなんて軟派なことやめて、剣道に打ち込めだなんて言われてる。けど、やめれねぇんだよな。やめたら、こっちの世界に戻って来られねぇって感じがして。だから、あいつらがいてくれてよかったって思うよ。本当に大切だって思う。時には、ホント信じらんねぇようなバカもするけどさ。俺はあいつらにかなり救われてるよ」
 真司はそこで言葉を切って、芳に目をやった。その時の、芳の表情。
 ひどくもの悲しそうな、それでいて遠くを見つめるような、美しくて儚くて、消えてなくなってしまいそうな、そんな表情。
 真司は、芳がもう少しで泣き出してしまうのではないかと思った。だが、次の瞬間芳は、テレくさそうな苦笑をその顔に浮かべた。
「参るよな。そんなことさらりと言われて。今まで俺には、大切だって断言できる人間なんて、いなかった。今だって勿論いない。そんなこと、意識すらしたことがないよ。ホント、参っちゃうよな。参っちゃうよ・・・」
 アハハと空気が抜けるような笑い声をあげつつ、芳が、コツンコツンと自分の額を拳で軽く小突く。
 それを見て真司は、眉間に皺を寄せた。
「何だかお前、根深い悩み抱えてそうだな」
 芳が、顔を上げる。
「悩み? そう・・・。確かに悩みだね、これは。芹沢、誰か好きなヤツいる?」
「え?」
 真司は、益々顔をしかめた。左手で首筋を掻く。
「おい、突然話が飛ぶんだな。いる訳ないだろ。俺、凶悪だからモテねぇしな」
 芳が、「ふーん」と鼻だけで笑う。
 その笑いが妙に気になってしまう真司。
「お前はいるのか。その・・・、好きなヤツ」
「いるよ。すごく好きなヤツ」
 闇を凝視する芳の横顔は、なぜか無表情だった。
「真っ直ぐで、潔くて。触れるのが恐いくらい」
「なんだよ。片想いか」
「まぁね」
「お前だったら、大抵の女はオーケーだろうが」
「顔だけの男に何ができるっていうの?」
 芳が、真司を見つめてくる。大きな瞳。いつもは鳶色に輝いているその瞳は、今は闇を映して黒く淀んでいた。
「芹沢も言ったじゃん。顔だけだってさ」
「そりゃ、あん時はまだお前のこと、よく知らなかったから」
「知るようなことは何もないさ。何も、何もね」
 芳はそう言って、また窓の外を眺める。
(こりゃ、相当根深いなぁ・・・)
 芳の空気が伝染したのか、やたら胸が痛くなった真司は、芳の背中を軽く叩いた。
「おい、飲もうぜ。やなコトがある時は、飲んで憂さ晴らしするのが一番だよ」
 真司は、高校2年生のくせに、実に親父的なセリフを吐きつつ、また一缶一気に空にして、グシャリと缶を握りつぶした。

 それよりかっちり1時間と5分後、二人の会話はこんな有り様になっていた。
「芹沢! おい、芹沢! ちょーおまー、ここに座れ!」
「ヘイヘイ。座ってるだろ。既に」
「解ってない! おまーはゼンッゼン解ってないよ」
「あーあー、マジでお前の言うこと解んねぇよ。おい、誰かコイツどうにかしてくれ」
 焼き肉を散々食い漁った他の四人は、銘々がすっかりくつろいだスタイルで、「えー?」と顔を上げる。
「スゴイ、小泉君。殿相手にクダまいてるよ」
「ちょっと真司君、飲ませ過ぎよ。どうして真司君って、芳君に対してそんなに過剰攻撃しちゃうわけぇ?」
「あ~? してねぇよ、んなコト」
「してる、してる。最近真司、小泉のことばっか構うから、俺寂しくって、嫉妬に狂いそう」
 ニヤニヤしながら、彰がそう言う。
「何きしょいこと言ってんだ! 早く助けろよ」
 真司が珍しく弱音を吐く間にも、芳は真司の頭をポカポカ殴りながら叫んでいる。
「人のこと女の子扱いしやがって! 優しくされるのって、すげぇ嬉しいんだ! でも、嬉しくないんだ!」
「何だよ、どっちなんだ、ホントは」
 芳の両手をなんとか掴む真司。
「ん~・・・っ。解らん! けど嫌だ! 何となく!」
「は~・・・。解んねぇのに怒んなよ」
「負けないかんな! かなり負けないって感じだよ、俺!」
「だから負けるって、何のことだよ。ナゾナゾか?」
「違う! 違うけど、何だか・・・」
「何だか、なんだ」
 両腕を掴まれたまま、芳は突如無表情になって、真司を凝視する。
「だから、何なんだよ、何だかって」
 言ってる自分で訳が解らなくなりつつ、真司も同じように芳の顔をじっと見つめる。その真司に、芳は一言言った。
「何だか・・・吐きそう」
「キャー!」
 悲鳴を上げたのは、万喜子だ。
「早くどっか連れてって! 美少年が吐くとこなんて、絶対見たくない~!」
「真司、早くトイレに連れてってやりなよ」
 こんな時でも呑気な健史が、部室の扉を開ける。
「カーッ、しゃあねぇなぁ」
 真司は芳を背中におぶると、「ぜってー背中で吐くなよ!」と怒鳴りながら、バタバタと部室を出て行った。
「しかし小泉が、絡み魔だとは思わなかったな」
 片眉を引き上げ、彰は真司の出て行った扉を見つめる。その横で万喜子が、さりげなく呟いた。
「アレにはアレなりの訳があるの。アタシ、泣いちゃいそうだったよ。あんまり芳君がいじらしくてさ」
「お、姫問題発言。それって、一体どういう意味?」
「ダーメ。ナイショー」
 三人は訳が解らず、まさしく自分達が知恵の輪のようなナゾナゾを出題された気分になった。
 一方、真司は、ようやく出てきた月明かりに青く照らされる不気味な夜の廊下を、恐怖とはまさに無縁の顔をして(恐怖があるとすればそれは、背後からゲロを浴びせられることぐらいである)、近場のトイレに駆け込んだ。
 一番奥にある唯一の洋式便器の前に、芳を降ろした。地べたのタイルに蹲ろうが、便器のヘリに手を掛けようが、この際汚いなんてことは言ってられない。
「おい、もう吐いていいぜ」
 そう言って背中をさする真司の手を、芳はうなり声を上げながら振り払った。
「何だよ、どうした?」
「・・・外・・・、出てて・・・。吐くとこ見られたくない」
「あ?」
「ずっとずっと遠くに行ってろよ。でないと吐けない~」
「ああ、解った解った。便所の外で待ってっから、吐ききったら呼べよ」
 全く妙なことを気にするヤツだと口を尖らせ、真司が外へ出て行くと、奥の方から苦しそうなうめき声がすぐに聞こえてきた。
「あ~あ。何だか声だけってのも、想像力が働いて結構キビシイぜ」
 冷たい汗を一筋頬に垂らす真司である。
 水を流す音が聞こえてから暫くしても、一向に芳の声が聞こえてこないので、流石に真司は不安になった。
「おい、小泉。大丈夫か、お前」
 真司がそろりそろりと、奥の個室まで近づいて中を覗くと、蓋が閉められた便器に抱きつくようにして、芳は寝息をたてていた。便器と美少年。なかなかお目にかかれない組み合わせである。
 一気に脱力感を感じた真司は、芳を抱き起こそうとした。
「しっかりしろよ、小泉。ほら、俺に寄っかかれって」
「ん~」
 不機嫌そうに鼻を鳴らして、芳が真司に抱きついてくる。よもや全体重をかけられるとは思っていなかった真司は、バランスを崩して、その場に座り込んでしまった。その際、頭をゴチンと壁にぶつけてしまう。
「あいて! ク~ッ、ちくしょー・・・。おい、小泉、大丈夫か?」
 膝と膝の間に芳の身体を抱えるような格好で、真司はその場から立てなくなってしまった。こんな狭い個室じゃ、芳が先に立たないと、真司も立ち上がれない。だが、肝心の芳がすっかり寝ぼけてしまっているのだから、すぐさまこの状況が打開できるとは思えなかった。
「しっかりしてくれよ、小泉。お前が立たねぇと、俺も立てねぇ」
「・・・スキだよ・・・」
「は?」
「・・・死にそうなくらい、好きなんだよう」
 すっかり朦朧としている様子の芳が、聞き取れるか聞き取れないかのぐらいの小さな声でボソボソと呟き、更にしがみついてくる。
「腕も足も手も顔も、目も鼻も口も耳も、みんなすごく好き・・・」
(なんだ、こいつ、寝ぼけてやがんのか)
 何となく、手元無沙汰加減で、真司は芳の背中をさする。
「クソ~、こんなんじゃ・・・。いつまでもこんなんじゃ、気が狂っちゃうよ・・・」
(あ・・・、涙・・・)
 真司の胸に顔を押しつける芳の、ギュッと閉じられた目尻には、少しだけ涙が滲んでいた。
 それを見た瞬間、真司は言い知れぬ息苦しさを感じてしまった。そう、まるで自分が適わぬ恋に悩んでいる当人になってしまったかの如く、すごくせつなくて、苦しくて。そのどうにもならない歯がゆさは、今まで感じたことのないような熱を帯びて、真司の身体を襲って・・・。
「お前・・・」
 真司は呟く。
「お前、スゲェつれぇ恋、してんだな・・・」
 半分寝入り込んでいる芳が、果たしてどこまで聞いているかは判らなかったが、真司は、まるで芳の耳元に囁くように、細く掠れた声で言った。
「俺には何もねぇって言っときながら、こんなにしっかり熱いもの持ってんじゃんか。俺は今まで、泣いちまうぐらい人を好きになったこたぁねぇよ。ただの、一度もな」
 真司は、胸元の芳の顔を覗き込む。
 さっきまで険しく苦しそうな顔をしていたくせに、今はすっかり安心したような顔をして、気持ちよさそうに寝息をたてている。本当に、天使のような寝顔とはこのことだと思わせるような、きれいな寝顔。
(好きな奴の夢でも見てやがんのかな・・・)
 真司は、フッと笑みを浮かべ、芳の柔らかい髪を大きな手でクシャクシャとかき回した。
「お前にこんなに想われて、相手のヤツはホントに幸せ者だよ。適うといいな・・・。お前の恋」
 真司はそう呟いて、芳の髪に顔を埋めた。

 すがすがしい朝日だった。
 そう、こんなところで浴びさえしなければ。
 芳は、顔を起こして、ギョッとなった。
 まずは、一番最初に純白の便器のドアップを見て、ギョッ。次は、自分の身体を抱くようにして眠り転けている人物の小麦色の胸元を見て、更にギョッ。
 芳は、慌てて身体を起こした。
 あろうことか自分は、学校のトイレで、あの芹沢真司の寝乱れて軽くはだけた剣道着の胸元に顔を押しつけつつ、心地よく眠りこけていたらしい。
 芳は、もう少しで叫び出しそうになったのだが、この状況で真司を起こしてしまうのが恐ろしくて、慌てて両手で口を被った。
 少し、頭が痛い。脳味噌の奥の方がズキズキして、思わず眉間を指で摘んだ。
 しかし、もっと最悪なのは、夕べ何がどうして、今のこの状況に至ったのかが、全く判らないことだ。
 昨日、誰かの弁当箱で焼き肉をする傍ら、真司とビールを飲んだことは覚えているのだが、それを何本飲んだのか、飲んで何をしたのか、全然思い出せない。
 芳は、溜息をついて、辺りをもう一度ぐるりと見回す。
(今、一体何時なんだろう・・・)
 真司の影響でここのところ時計をしていない芳は、首を傾げた。なんだかやたら、早朝の時間帯にも思える。だが、いつまでもここにこうしている訳にはいかない。なんたって真司は、胴着に袴という稽古着スタイルなのだ。とにかく真司は、少なくとも着替えなければならない。
「芹沢・・・、芹沢、起きろよ・・・」
 真司の耳元で言ってみるが、一向に起きる気配はない。真司にとってみれば、こんなトイレの個室なんて狭苦しそうで寝心地も悪いだろうに、本人はいたって気持ちよさそうに、小さくなって眠り込んでいる。
 その寝顔が、普段の彼からは想像できないほどあどけない少年のそれで、芳は思わず見入ってしまった。
「・・・コイツ、意外にかわいい顔して寝てるよ・・・」
 芳はそう呟きながら、真司の滑らかな頬を撫で、指先で下唇を辿った。緩く口を開けて眠っているせいか、唇は少し乾いている。起きる気配は、まだない。
「知らないだろうけど・・・、実はお前のこと、凄く好きだったりするんだな。俺って」
 首を傾けて、芳は呟く。
 それでもまだ規則正しい寝息をたてて眠っている真司が憎たらしくなって、芳は真司の小鼻を摘んだ。すると、暫くして彼は、うるさそうに鼻を鳴らし、蝿か蚊を追い払うように、芳の手を払った。しかしまだ、しぶとく起きようとしない。
「鈍感」
 芳はそう言って、恐る恐る、そっと真司の唇に自分の唇を重ねた。
 触れるか触れないか判らないぐらいの、掠るようなキスだったのに、まるで初めて経験するキスのように芳の身体は震えた。身体に思うように力が入らないくせに、身体中の血管が暴れまくっているような感覚・・・。
 男同士というタブーが、自分を追い立てているのだろうか? でも、それにしても、この幸福感はどこからくるのだろう。こんなに身体中が落ちつかないでいるというのに、心は反対に安心しきってて・・・。
 芳が、真司の広い胸板に再び身体を預け、ホッと熱い溜息をついたその瞬間。
「お前ら、こんなところで何やってんだ!」
 芳は、心臓が飛び出るくらいに驚いた。身体を飛び起こした芳は、次の瞬間に顔を蒼白にする。
(まさか・・・、今の見られた?)
 身体を硬直させたまま、芳が振り返ると、見たこともないような男子生徒が自分達の姿を発見して、向こうも向こうでひどく驚いていた。
「びっくりした。死んでるのかと思った」
 どうやら三年の生徒らしい。彼は純粋に、人がトイレに倒れ込んでいることに驚いているらしい。
 取り合えず芳は、胸を撫で下ろして、強ばったなりの笑顔を浮かべた。
「すいません。何だか朝から気分が悪くなっちゃって・・・。すぐ起こしますから、あの、お構いなく」
 朝っぱらからこんな美少年の爽やかな笑顔にお目に掛かったせいだろうか、その生徒もすぐに表情をやわらげて、隣の個室に入って行った。
 芳は、慌てて真司の両襟を掴んで、引き起こす。
「おい、芹沢っ! やべぇよ! 起きろよ!」
 何回か頭を掴んで降りたくってやると、漸く真司の目が開いた。
「あー? なにゃぁ?」
「なにじゃないって、やべぇよ。もう朝だよ。ホームルームだよ!」
 芳の悲鳴じみた声と共に、隣の個室から、朝っぱらに嗅ぐには香しすぎる臭いが香ってきたのだった。


<戦ってやろうじゃないの>

 「芹沢。お前、制服ってものがあること知ってる?」
 担任の朝の第一声が、これだった。
 白いワイシャツと、黒いベストがずらりと並ぶ教室の一番後ろの席。普段ただでさえそのデカイ図体が目立つというのに、その男子学生は何を血迷ったか、胴着に袴という訳の解らない格好で座っていた。しかも、今起きましたと言わんばかりの寝ぼけ顔に、くしゃくしゃに乱れた髪というスタイルで。
 さっきから、教室のあちこちで笑い声が漏れている。
 結局それから、朝のホームルームの時間一杯かけて、真司は担任にお説教を受けたのだが、低血圧の真司にとってはまさに、寝耳に水。馬の耳に念仏。やけに通りのいいトンネルと同じ効果を発揮した。
「とにかく、昼休みに着替えてきなさい。特別に外出を許すから。それから、着替えてくるまで目立つ行動はするな。指導部に見つかったら、俺まで叱られる」
 このセリフが、果たして真司の耳に入ったかどうか。
 一時限目の授業が終わって、流石に顔を洗っとこうかと廊下に出た真司は、雄大と出くわした。
「あっ! 丁度よかった。様子見に来たんだ。昨日どうしたのかって思っちゃって」
「え? どうしたも何も・・・」
 真司は、廊下の流しに向かいながら、顔をしかめた。流しで豪快にザブザブと顔を洗って、胴着の袖で水滴を拭う。
「その格好を見るところ、夕べ家に帰った訳じゃないようだね。小山の健ちゃんも姫も彰君も、皆午後出勤の予定だって。やれやれ、まともに来たのは僕だけだよ」
 後ろから、雄大が言ってくる。
 ああ・・・、と真司は思った。
 そういや、今朝、教室に健史の姿がなかったな。全く、全然身にならない合宿だったって訳か・・・。
 タハハと頭を抱える真司に、雄大は訊いてくる。
「夕べ、ずっとどこにいたの? 随分僕、捜したよ?」
「ずっとトイレで寝てた」
「えぇ~? 夕べ、トイレにも声を掛けたのに、誰も返事しなかったよ」
「多分その頃、熟睡してたんだろう」
「熟睡って、トイレでぇ? 僕らてっきり小泉君と一緒に帰っちゃったかと思ってたよ。小泉君も一緒だったの?」
 雄大にそう訊かれ、真司の脳裏に夕べの芳の顔が浮かんだ。  自分の胸元に顔をすり付け、泣いていた芳。苦しげに、何度も何度も桜色の唇を噛みしめて・・・。
 真司は、軽い溜息をついて窓の外に顔をやった。
(・・・アイツの好きなヤツって、誰なんだろう、一体・・・)
 思いっきり遠くを見つめる視線で真司がたそがれていると、いきなり腕を掴まれた。真司は、振り返る。そこに雄大のベソをかいた顔があった。
「殿ぉ~、また和田君に酷いこと言われちゃったよぉ~。やっつけちゃってよぉ~」
「あ?」
 真司が顔を上げると、そこには朝の爽やかさとは全く無縁な、アマアマハンサム顔がいた。
「脳味噌軟体タコ男・和田」
 真司の口から思わず出たフレーズに、相手は明らかに不機嫌そうに真司を睨んできた。
「なんだ、その如何にも頭の悪そうな修飾語は。学年2、3位の成績の男を捕まえて何を言う」
 それが一体何になるんだよ・・・とシラけた気分で真司が片手で顔を覆うと、それを見て和田は、ニヤッと笑った。
「お、ダメージを受けているようだな。そろそろ僕がバンドを抜けたことによる衝撃が襲ってきていることだろうと思っていたのだ」
 そう、説明し忘れていたが、この和田という男は、ペラペラなハンサム顔の他に、今世紀最大級とも言える「大勘違い・自分のいい方に物事を取るでしょう男」という称号を持つのだ。真司としては、なぜにこんな訳の解らない男に女が寄って来るのかが解らない。これはもう、目当ての女に薬でも仕込んでるとしか思えてならないのだ。
 しかし和田は、そんな真司の気分の悪さなどお構いなしに、どんどんくっちゃべる。
「君達、新しいヴォーカル入れたそうだね。このハンサムの代名詞である僕に対抗して、顔だけはいい小泉君を入れたそうだけど、彼、歌えるの? 最近なんだか秘密特訓してて、彼の歌声をちゃんと公開しないところをみると、相当失敗なんだね? ま、僕以上に優れた歌声を持っている男なんて、そうざらにはいないから」
 確かに歌はうまい和田君だからして、かなり自信のある口振り。
「なんて、失礼なヤツ! 僕ばかりか小泉君までバカにしようっての!」
 雄大はすっかりお冠で、真司の傍らでキャンキャン騒いでいる。
「ええい、うるさい、雑魚。僕に彼女を取られたからって、僕にうるさくつきまとうのはやめてもらおう」
「うわぁ~ん、酷いよぉ~! カズミちゃん、どうして僕を捨てて、こんな底の浅い男の元へ行っちゃったのぉ~」
 古傷をグサリとやられたらしい。雄大はすっかり再起不能状態で、その場に蹲ってしまった。
 この騒ぎに、周りでは遠巻きにギャラリーができている。
(そういや、この前のケンカの原因、和田が雄大の彼女を横取りしたことだったんだっけ・・・)
 漸くここにきて、物語の初心に返る真司である。そんな真司にはお構いなしに、和田はあくまで自分の一人舞台といったように、宝塚ばりのポーズをつける。
「僕を連れ戻そうったって、そうは行かないよ。僕は君のあの暴言には相当腹を立てているからね」
 暴言? 暫し真司は考え込んで、ああと思い至った。
「ああ、お前が早漏って話か」
「いいいっ、また、また言うか! こここ、この、言ってはならん一言を、またお前はここで言うか!」
 自分でネタ振りしたくせにと言ったところで、和田の耳には入らない様子。どうやら和田のネジもイカレてきたらしい。彼は、すっかりめくじらを立てて騒ぎ立てる。
 その間にも、ギャラリーがヒソヒソと呟いた。「和田君、早漏なんだって」と。
「違う、違う! 濡れ衣だぁ!」
 和田は一頻りそう叫んで、ピタリと真司を指さす。
「決闘だっ! バンド対抗歌合戦だぁ!」
 こうなっては、最早この廊下は戦場である。周りは黒山の人だかり。その中心では顔を真っ赤にして決闘だと怒鳴るタレ目の男。一方、ウンチヘアの男は、汚い床に伏せてオイオイと泣き叫び、三人目の男は、時代錯誤もいいところの侍のような風袋で、ポリポリと頭を掻いている。
「今度の高校生バンドギグで決闘だ! アンケート用紙で、今日のベストバンドに多く名前の上がった方が勝ちとする!」
 震える指先で真司を指さし続けながら、和田は吠える。
 周りのギャラリーでは、誰かが仕切って、早くもこの勝負の賭が始まっているようだ。 「芹沢! お前のバンドが負けたら、お前、頭をそいつみたいにしろ! そいつみたいなウンチヘアにな!」   真司は、和田にそう言われ、足下で蹲る雄大の頭を見た。いつ見ても、見事なウンチヘア。誰だって、好きでなきゃこんな髪型はできない。(もっとも、雄大だって好きこのんでこの髪型になっている訳ではないのだが・・・)しかし真司は、その過酷な条件でも、ニヤリと余裕の笑みを浮かべて見せた。その大魔神かのごとき恐ろしげな笑みに、和田が一瞬ヒッと怯む。
「いいぜ。その条件呑んだ。で、お前が負けたらどうしてくれるんだ?」
「うう・・・、それは・・・」
 和田がそう言いよどんだ時、芳が、人垣をかき分けて輪の中に入ってきた。
「何もめてんだよ。この騒ぎ聞きつけて、生活指導が来るぜ。芹沢、お前そんな格好してんだから、この騒ぎはまずいよ」
 心配顔の芳の顔を見て何を思ったか、真司は芳の腕を掴んで引き寄せる。今朝が今朝だけに、顔を真っ赤にする芳。
「せっ、芹沢! 何するんだよ!」
 抱きしめられた訳でもないのに、この焦りよう。しかし、真司は動じる様子もなく、真っ直ぐ和田を見つめて言った。
「和田、お前、さっきコイツのこと、顔だけの男ってバカにしたよな。お前が負けたら、コイツに土下座して謝れ。顔だけの男は自分でしたってな」
 芳は、ハッとして顔を上げた。
「芹沢、何言ってるんだよ。負けたらって、どういうことだ?」
「ああ。今度のバンドギグで、どっちがいいバンドか競うんだ。俺達が負けたら、俺はこの髪をドレッドにする」
 芳は、その真司の言い草に、顔を青くする。
「なんてこと約束してんだ! その髪、願掛けしてる大事な髪じゃないか! 俺はバカにされたって、気になんかしないよ! やめろ、こんなバカな勝負なんて!」
 お~と周りがどよめく。 「芹沢のあのロンゲは、何かの願掛けらしい」とどこからともなく呟き声が漏れてくる。
 真司は、必死な顔をして自分を見つめてくる芳の頭をポンポンと軽く叩いた。
「安心しろ。俺達はぜってー負けない」
 真司は、不敵な笑みを再び浮かべ、和田を睨む。
「言っとくけど、うちの今度のヴォーカルはちょっと凄いぜ。その格好よさに、俺だって舌巻くくらいさ。根性だってピカイチだしな。お前ら、コイツの声聞いたら、ぜってー気ぃ失うぜ。あんまり格好よすぎてよ」
 この真司の言葉で、一瞬その場がシンとする。芳や和田ばかりか、さっきまで泣いていた雄大さえも、真司のこの発言に呆然として真司を見上げてる。
「殿がそんなに人を褒めるなんて、初めてだ・・・」
 雄大がそう呟いたのと同時に、教師が二人割り込んできた。
「お前ら、何の騒ぎだ! もうすぐ始業のベルが鳴るぞ! 芹沢、騒ぎの原因はまたお前か! お前はなんて格好してる! 制服はどうした! ちょっと指導室まで来い!」
 人垣が見る間にちりちりバラバラになり、真司の腕が、屈強そうな教師に掴まれる。
「芹沢!」
 芳が、真司の名を呼ぶ。
 立ち止まって振り返った真司は、今から生活指導のしごきが待っている割には呑気な顔つきだった。
 そして、縋るような表情をして自分を見つめてくる芳に、今まで彼が見せたことのないような穏やかな笑顔を浮かべてこう言った。
「さっきの、張ったりじゃないからな」
 曇りのない、爽やかな風のようないい笑顔だった。

  「え~、真司君、和田君相手にそんなこと言ったのぉ!」
 放課後の軽音部。三々五々集まってきたバンドメンバーに、一部物まねを交えた解説付きで雄大が昼間の一件を報告する。
「も~、大変だったんだからぁ」
 一頻り泣いてたくせに、何を偉そうに言っている雄大。だが、彼の報告話には、自分が大泣きしたことは割愛されているから、他のメンバーが知る由もない。
「めっずらしぃ、真司があの和田の挑発に乗るなんて」
 健史が、パイポ(※1)を口にくわえながら、言う。
「そ、そこなんだよ。僕は多分、殿は小泉君をバカにされたのが相当気に入らなかったとみるね」
 両手を腰にやって、得意げに推理してみせる雄大。
 彰は、読みかけの本から顔を上げて、フムと顎に手をやった。
「別に小泉を隠してた訳じゃないのにな。ま、真司の稽古の時間に合わせて遅い時間に練習したりしてたから、結果的にそう見えたかもしれないけど。寧ろ隠したいのは、雄大のコーラスの下手さだよな」
 いつも辛口のコメントである。
「で、その当事者である真司と小泉はどうした?」
 そういえば、二人の姿は見えない。
「殿は今日、袴姿で校内彷徨いたバツで、自宅に強制送還。小泉君は知らない」
 雄大の一言に、万喜子が、フーンと鼻を鳴らす。
(な~んだ。二人でデートか。つまんない。どんな顔下げて部室に来るかと思ってたのに・・・)
 万喜子は、部室の窓から赤い夕焼け雲を見上げた。この空の下のどこかで、ひっそりとした新たな恋が始まっているんだと、何となく甘すっぱい思いを感じながら。

 真司の目の前を、勢いよく柴犬が駆けていく。
 夕方の河川敷。一頻りジョギングをして汗を掻いた真司のスエットは、濃いグレイに色を変えていた。今し方鎖を外してやった芹沢家の飼い犬・長島号は、主人を時々振り返りながら、嬉しそうに駆けていく。
「おい、長島! あんまし遠くに行くな!」
 叫んだ途端、口の端の切れた傷口がズキリと痛んだ。反射的に傷に手をやる。そこは微かに赤く肉が盛り上がって、周りの皮膚は青く変色していた。
 勿論、教師に体罰を受けた訳ではない。自宅に強制送還になった息子を、魚屋の店主がしこたま殴りつけたのだ。
 とにかく、真司の親父はよく真司を殴りつける。これが男の生き様だと本気で信じている堅物なのだ。真司も、父親に対しては身体で反抗することはない。単に親父が恐い訳ではなく、反抗することで肉体的に親父に勝ってしまうことの方が恐かった。育ち盛りの真司の身体は、とっくの昔に親父の背を追い越している。力で親父を負かすことぐらい簡単なことだとは、真司には痛いほど判っていた。
「さて、そろそろ道場に行くかなぁ」
 軽くストレッチをして、犬を呼びに行こうとした時である。
 土手の上に、自分を見つめる学生を見つけた。夕焼けに照らされた、ピンク色の頬。鳶色の髪と瞳が、今はオレンジ色に染まって見える。
 こうして見つめていると、この人間が本当に現実に存在していることが少し信じがたく思えてしまう真司である。それだけ、この少年の寂しげな表情が儚く見えて・・・。
「小泉」
 真司が名を呼ぶと、彼はテレたように笑って見せた。
「犬の散歩?」
 芳がそう言いながら、堤防の階段を下りてくる。
 真司は、側の芝生に腰掛けた。芳も同じように隣に腰を掛けてくる。
 真司の犬が、主人が腰を下ろしたことを目敏く見つけて、駆けてくる。一頻り真司と芳の顔を嘗め回って、今度は逆方向に走って行った。
「元気いいね、犬」
「ああ。こんな時間に散歩に出ることは稀だからな。いつもは俺の稽古とバンドの練習が終わってからだから、いつも遅い時間なんだ。嬉しいんだろ、この時間帯、他の犬がたくさんいて」
 タオルで汗を拭いながら、ぼんやりと真司は言った。
「どうしたんだよ。口の傷」
「ああ、親父に殴られた。学校で人様に迷惑かけんのもいい加減にしろって」
 芳が、また表情を曇らす。
「またそんな顔する。いいんだって。親父が俺を殴るのはいつものことで、親父はこれで身体鍛えてんだから。俺だって何とも思っちゃいねぇよ。これくらい」
 真司がそう言っても、芳の表情は晴れない。
「俺は・・・。人に殴られたことなんてないよ。ましてや、父親に殴られたこともない。俺は、いつも芹沢に追いつけないんだね。こんなに芹沢と同じものを見たいと願っているのに、俺は芹沢の痛みのこれっぽっちも理解できないんだ」
「小泉?」
「俺、いつも思ってた。芹沢みたいに、地にしっかり両足をつけて、真っ直ぐ物事を見つめてるような男になりたいって。でも、現実の俺は、周りがチヤホヤして築き上げたぬるま湯にどっぷりと浸かって、皆が用意したレールをただ走るだけのガキで・・・」
 川面を見つめていた芳は、膝に頭を埋めた。
「何であんなこと言ったんだよ! まだ満足に低音も出せないこの俺が、凄いヴォーカリストだなんて、あんなみえみえの嘘」
 芳の横で、大きく溜息をつく音が聞こえる。
「言っただろうが。あれは張ったりじゃねぇって。事実お前は、随分パワーのある声が出るようになってる。そんな気がしないのは、単にお前の理想が高いんだよ。お前は和田よりいい声を出せる。何ブルーになってんだよ。これくらいのプレッシャーに潰れるんじゃねぇ」
 芳は頭を傾けて、右目だけで真司を盗み見た。明らかに真司の声は、怒ったような口調だったからだ。だが、そこには、優しげな色を浮かべた瞳があった。
「もっと自分に自信持てよ。顔がいいことは、それはそれでいいことじゃねぇか。俺は気に入ってるぜ、お前の顔」
「だってだって、芹沢だって、俺のこと、顔だけはいいなって・・・」
「あれはあれで、俺にとっては褒め言葉のつもりだったんだが」
「え? 褒め言葉だったの? あれで?」
「悪ぃか」
 ブスッとした顔で、芳に横顔を見せる真司。本当にこの男は口べたで・・・。
 なんか妙におかしくなって、芳は笑った。最初は声を抑えて笑ったが、終いにはその声も抑えられなくなった。
「何がそんなにおかしい。白馬の王子のようなツラして、ガハハと豪快に笑うんじゃねぇ」
「はっはっはっ、白馬の王子・・・! 今時そんなダセェこと言うなよ!」
 芳はそう言って、また大笑いする。
「おっ、俺じゃねぇよ! ま、万喜子がなぁ!」
「万喜子ちゃんが、そんなカッコ悪いこと言うわけないじゃないか! アハハハ」
(クソー。絶対偏見だ)
 憮然とする真司の顔を、いつの間にか側に帰ってきていた長島号が、遠慮なしにベロベロ嘗める。
「やめろ! 長島! うざってぇぞ!」
 真司がカッと吠えると、かわいそうな長島号は、芳に寄って行く。寝っ転がって笑う芳の首もとを、尻尾をフリフリ嘗める長島号は、芳の首に掛かっている細いシルバーの鎖をその襟元から引き出した。
「こら、長島! 何やってる、お前!」
 二度も怒られた長島号は、すっかり怯えて、飛び逃げた。
「おい、大丈夫か。千切られてないか」
「ああ、平気、平気。大丈夫」
 芳は目に浮かんだ涙を拭いつつ、身体を起こす。
「何か、変わったのしてるな」
「え? あ、これ? おばあちゃんの形見なんだ」
 芳は、そう言いながら、銀の鎖を陽に翳す。銀の鎖の先についている小さな時計が、赤い陽の光をキラリと反射させた。
「ネジ巻き式の古い時計でね。もう止まってるんだけど。ネジを巻いたら多分まだ動くと思う」
 あまり飾り気のない質素な時計だが、上質の気品を感じさせる。芳の祖母はいい趣味をしていたのだろう。その時計は芳によく似合っていた。
「この時計さぁ、おばあちゃんが亡くなる時、お前が本当に好きになった人にあげなさいって言われながら貰ったんだ。なんだか、時代錯誤もいいとこだよね」
 時計を見つめながら、芳は苦笑いする。
「でも、いい人だったんだ。おばあちゃん」
「そっか。いい時計じゃねぇか」
「うん」
「キュウン」
 真司の背後から、申し訳ないといった様子で、長島号が鳴く。
「判った、判った。もう怒らねぇよ」
 真司がそう言うと、主人の言うことが判ったのか、長島号は尻尾を振って真司の顔を嘗めるのだった。


※1 パイポ
禁煙を目指すオジサン達の頼もしい味方。いろいろなフレーバーがある。(現在も販売されてますよねぇ?)「私はコレで会社をやめました」というコマーシャルはあまりにも有名。

 

魚屋ドレッド本舗 act.04 end.

NEXT NOVEL MENU webclap

編集後記

いきおいづいてアルコールまで飛び出してしまいましたが、一応未成年の飲酒は法律で堅く、かたぁ~く禁じられております。したがって、よいこの皆さんは、真似しないようにしてね(大汗)。
一方、 魚屋ご一行様について、今、気が付いたことがあります。しかもかなり重大なこと。・・・バンドの名前考えるの忘れてました(あはは~)。まぁ、本編にあえて出てこないからなぁ。いいか、魚屋ドレッド本舗で。・・・やっぱダメか。

[国沢]

小説等についての感想は、本編最後にあるWEB拍手ボタンからもどうぞ!

Copyright © 2002-2019 Syusei Kunisawa, All Rights Reserved.