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act.03

 <学園のアイドル小泉芳の事情>

 アイツ見てると、正直悔しくてたまらなくなる。何がそんなに悔しくて仕方がないかなんて解らないけれど、本当に悔しくてたまらなくなるんだ・・・。
 これが、小泉芳の胸の内だった。
 いつからだろう。芳が、芹沢真司という男に対して、そういう感情を持ち始めたのは。
 小泉芳という少年は、その儚い見かけのせいでかなり誤解されているが、実際はかなり負けん気の強い、男の子らしい性格の持ち主だった。いつもおとなしくて、クールな奴とよく言われているが、それもこれもこのやたら端正な顔のせいで、いつしか王子様的なイメージが定着してしまった。芳自身、自分のそんな女顔をいつも呪っている。
 その芳が、芹沢真司の存在を知ったのは、高校入学して間もない頃。その時から既に、芹沢真司は、芳以上にやたら目立つ存在だった。そのデカイ図体が一際目立つ原因でもあるだろうが、中学時代からの数々の武勇伝を引っ提げて、鳴り物入りで入学してきたために、上の学年のやたらえばった連中も、この爆弾一年坊主に一目をおいた。
 はっきり言ってしまえば芳は、最初の頃、つまり高校一年の中頃まで、真司のことを見下していたのだ。別に本人と話をして、という訳ではない。あくまで見かけと噂だけでの判断だ。
 一年生がやっと学校に馴染んできた頃から広まり始めた「我がクラスの名人物紹介」といった類の噂話の中には、いつも芹沢の名があった。
 芳のクラスは比較的おとなしいクラスで、結果的にそう話題性もなく、たまたま芳がきれいな顔だったという理由だけで芳は名物に仕立て上げられたのだが、芹沢真司の場合はそんなに生っちょろいものではなかった。
 地味なクラスから見たら、やたらと元気がよくて騒がしいクラスは、そのクラス自体がもう特別に見える。そんなクラスの中で更に名人物と謳われるのだから、もうその凄さは折り紙付きである。
 芹沢真司は、丁度そんな奴だった。
 芳のクラスの連中は、真司のいるクラスが何かことを起こす度に眉を顰め、その中心に決まって芹沢真司の存在をかぎつけると、露骨に嫌な顔をしてみせた。芳も、その例外ではない。あの頃の芳は、本気で真司を見下していたのだ。
 だが、今になって考え直して見ると、芳のいたクラスのあの冷たい視線は、嫉妬の裏返しだったのではないだろうか。
 自分達にはできないことができるクラス。
 自分達のクラスにはいないリーダー。
 芳のクラスは、成績がよいのが取り柄だったが、所詮はそれだけのクラスだった。
 だが、その事実に、どれだけの人間が気づいたのだろう。
 芳は、それに気づいてしまったのだ。自分にないものを持っている人間に対する、醜い嫉妬心に。そして、その裏側に、涙が滲んでしまうほどのせつない憧れがあることに。
 芹沢真司のことが気になって仕方がない。
 最近の芳は、特にそのことで頭を悩ませていた。
 真司の姿を廊下で見かけただけで、心臓がオーバーヒートしてしまう。何気なくどこからか真司の笑い声が聞こえてくるだけで、友達同士の会話も上の空になる。でも、その気持ちを絶対他人に気づかれたくなくて、一生懸命になって普段の自分を取り繕う・・・。
 芳は、かなり重傷だった。しかし、自分のこの感情が「恋」だとは自覚していなかった。そう、当の芹沢真司に、「俺のバンドに入れ」と言われるまでは。
 眩暈がした。ドキドキして、倒れそうだった。けれど、必死になって堪えた。
 この気持ち、誰にも知られてはいけない。悟られてはいけない・・・。だって、自分も相手も男同志なんだから。
 諦めよう。ここで引かなきゃ、もう戻れなくなる。もう我慢できなくなる。
 そう思って芳は断ろうとしたのに、奴はその芳にこう言ったのだ。 「顔だけの男だな」と。このセリフでカチンときた。もう引き下がれないと思った。
 負けたくない。顔だけの男と言われて、黙っていられるか。
 だから芳は、決心したのだ。ぬるま湯の世界から飛び出そうと。


<筒井雄大。たまにはいいこと言う>

 「パンパカパーン! 小泉芳君の登場!」
 万喜子の豪勢なファンファーレと共に、芳少年がおずおずと部室に入ってくる。
 今日は珍しく出席率のいい軽音部の部室が、学園のアイドルの登場に「おお~」とどよめいた。あちらこちらで、「本気でスカウトしてくるなんてさ・・・」というような類の呟きが囁かれている。
 そして、当のバンドのメンバーといえば、皆一様にしてやったりといった笑みを浮かべていたが、唯一、一人だけ、異なった表情を浮かべている者がいた。
 そう、モップのような髪を持つ男、筒井雄大、その人である。
「ちょっと~。これって、これって、どういうことぉ?」
 雄大が泣き言を言うのも無理はない。
 なんたって、芳がバンドの一員になったってことは、何も雄大がドレッドにならなくてもよかったってことで、つまりそれは、はっきり言っちゃえば、無駄骨だった訳で、取り越し苦労だった訳で、犬死にだった訳で。
「あ、雄大クン。それ、坊主にしないかぎり、元に戻んないからねぇ」
 健史の追い打ちに、雄大は床に伏して、大泣きし始めた。
「あの・・・、俺、何か悪かったかな」
 雄大の号泣に驚いたのか、芳がそっと口を開く。それに対してパイプ椅子に呑気に腰掛けている真司が、手を振った。
「いや。別に気にするこたぁねぇ。雄大って、いつもこんなだから。おい、誰かコイツにスティック片方だけ持たせとけ」
 二本のドラムスティックを持つと途端に凶暴なパンクマンになってしまう二重人格な雄大のことだから、取り合えず一本持たせときゃ普段に戻るだろうという、大変安直なお考えのギターマン。
 しかし、その呑気な口振りが、次の瞬間にはガラリと変わる。
「でもな、彰と万喜子はどうか知らないが、俺はまだお前がうちのヴォーカルやれるって認めた訳じゃねぇからな」
 真っ黒い瞳で射るように見つめられ、芳は一瞬竦んでしまう。
「もう! まだそんなこと言ってんの!」
 万喜子にコツンと頭を小突かれ、真司が「あいた」と頭を抱える。
 小さな女の子があの真司を小突いているのを初めて見た芳は、一瞬愕然としてまじまじと二人を見つめた。
(この二人、つき合ってんのかな・・・)
なんてことまで考えてしまって、芳は益々萎縮する。
「小泉君、真司の言うことは気にしなくていいよ。取り合えず、音痴じゃなかったらいいんだから。後は、この俺と真司に任せてくれれば、和田なんかに負けないくらいのいい声出せるようにするから」
 絶対的な自信が漲った口調で、芳の正面の椅子に座る田中彰が言う。
 田中彰。芹沢真司と張るほどの長身と成績が全国トップ50にランクインするほどの頭脳の持ち主。この少し大人びた顔立ちの天才が、問題児のたまり場と名高い軽音部になぜ在籍しているのかは、誰も知らない。一説では、あの芹沢真司をこの軽音部に招き入れたのもこの田中彰で、全く正反対の個性を持つこの二人は、無二の親友だという。
(なんだか自分は、とんでもないところに足を踏み入れようとしているんじゃないだろうか・・・)
 今更ながらに不安が募る芳である。
「そんなにビビんなくたって大丈夫よ。彰君の言ったこと、本当だから。あそこに腕組みして座ってるオッサン、人を引っ張っていく才能だけはピカイチなの」
 小さなお人形のように可愛らしい仕草で、万喜子が芳に耳打ちする。
 万喜子が同い年の真司を捕まえてオッサン呼ばわりするのがおかしくて、芳は思わず吹き出す。
「お、やっと笑った。やっぱきれいな人の笑顔はいいねぇ」
 あいも変わらずのラスタカラーのニット帽に丸いサングラスといういつものスタイルの健史が、呑気な声を上げる。彼はかなりのマイペースな人間らしく、彼が口を開く度、その場が和やかな雰囲気になる。芳も健史の声に何だかほっとした。
「何か歌ってみろよ。どんな曲でもいいから」
 腕組みしたまま、真司が言う。
「え? ここで?」
「大丈夫。アカペラでなんて無茶言わないよ」
 真司の言うことに尽かさず優しくフォローを入れたのは、彰だ。
「ここには大抵の曲の譜面揃ってるし、譜面さえあれば、俺がキーボードで演奏できるから」
「ああ・・・」
 芳は曖昧に頷いて、何気なく真司に視線をやった。バシッとあったその目が、「ここで歌えなきゃ、本気でお払い箱だぜ」と語っていた。
 ここで引き下がる訳にはいかないのだ。もう逃げないって決めたんだから・・・。
 芳は、今流行の曲を彰に告げ、伴奏してもらう。
 自分でも、そんなに歌がうまいとは思ったことはない。かといって音痴でもないし、普通程度だと思っている。こんな自分でも、本当にヴォーカルなんてできるのだろうか。
 芳は、思い起こした。
 昨年の文化祭は本当に凄かったのだ。
 邦楽の流行歌をコピーするバンドが多い中、彼らのバンドだけ、洋楽のしかもヘビィーでカルトな曲をカバーしていて、恐ろしく格好よかった。楽器触りたてのシトウトが混ざっているせいか演奏はやたら乱暴だったが、結局その学内対抗バンドコンテストで、彼らは準優勝をもぎ取った。一年生バンドのくせに異例のことである。しかも今では、学校で禁止されているライヴハウスに出入りしているという話も聞く。
 芳は、そんな彼らについていけるか解らなかったが、でもどうしてもついて行きたかった。このチャンスを逃したくなかった。そしていつか、自分がついて行くのではなく、一緒に肩を並べ、彼らと・・・いや「彼」と歩いて行けたなら。同じ目線で世界が見れたなら。
 気がつくと、部室中拍手が沸き起こっていた。それがどうしてか、一瞬芳は解らなかった。
(こんなに一生懸命声を出して歌ったのは、初めてのような気がする。一体どうだったのだろうか・・・)
 この拍手の中でもまだ不安は拭えずに、芳はいち早く真司を見た。
 真司はなおも腕組みしたまま、ジッと芳を睨んでいる。まるで若侍のような顔つき。
(うわ・・・。まるで斬られるみたいだ)
 自分にはない、無骨な瞳の光に見つめられ、芳の背に寒気が走った。震えが止まらない。身体の奥がジンと熱くなって、芳はつくづく痛感する。
(すげぇ、カッコいいなぁ、コイツ・・・)
 ふいに真司が立ち上がる。部室中がシンとして、真司の動きを見つめた。
 真司は、勝手に彰の鞄を探ると、その中から手書きの譜面を取り出し、それを芳に押しつけた。
「それ、来月末の高校生のバンドギグでやるやつ。お前、声を高く伸ばす時に半音上がる癖がある。それはいい。かっこいいよ。それを意識してできるようになるともっといい。けど、低音はまるでダメ。パワーが足りねぇよ。本番まで後一ヶ月ちょっとある。これから毎日練習に突き合え。それからその譜面も頭に入れろ。吹奏学部だったんだ。暗譜ぐらいできるだろ」
 部室内に、密やかな歓声が上がる。
 女の子達は、これから毎日学園のアイドルを身近で拝める喜びが、男連中は、この癖のあるバンドがこれからどう変わっていくのか、それぞれいろんな思惑があるのだろう。
 一方芳は、真司に一気にそうまくし立てられて、少々面を食らっていた。
(厳しい奴だとは思ってたけど、こんなにすごいなんて・・・)
 芳が目を白黒させていると、いつの間に復活したのか、意外とケロリとした顔つきの雄大が芳に近づいてきて、そっと芳に耳打ちをした。
「殿って、できると思った人には、いっつも厳しいんだよね。きっと殿は、小泉君が自分のスピードについてこれると思ったんだよ。よかったね」
 筒井雄大。たまにはいいこと言う。


<好きになって当たり前>

 それからというもの、芳は殆ど軽音部部室の住人と化してしまった。
 朝一に部室、休み時間にも部室、昼休みにも母上の手弁当を持って部室、放課後は誰よりも早く部室。かつて、これほど熱心な軽音部員が存在しえただろうか。
 暗譜は、なんなくできた。
 どうやらこれもカバー曲らしい。外国の曲で、歌詞は勿論英語だったが、芳は元々国立大学進学コースの優等生で、おまけに語学が一番の得意科目ときているから、オタンコナンス(※1)和田君みたいに歌詞の上にカタカナでフリガナをふらなくても頭に入った。それに、1ヶ月後のライヴでは1曲しかやらせてもらえないということで、暗譜はこの1曲だけですんだ。
 しかし、問題はそんなことではない。
 いくら部室に通って発声練習をしても、自分が満足できる「力のある低音」が出せずにいる。真司達が演奏したその曲が入っているテープをかけて歌ってはみるものの、声がテープの音にかき消されてしまう。しかも、原曲のカバーの仕方がやたらとヘビーなものだから、余計にである。高校生バンドとしては、かなりおじさん臭い渋みがあるハードなロックだ。あのか細い万喜子が、このギターの音を出しているとはちょっと思えない。
(俺って、やっぱ生っちょろいのかなぁ・・・)
 昼食後のコーヒーを啜りつつ、部室の窓から運動場を眺め、ぼんやりと物思いに耽る美少年。かなり絵になる。
 だが、最近小泉は変わったと人に言われるようになった。
 同じクラスの、未だ真司達を小馬鹿にしている連中からは露骨なイヤミを言われ、見知らぬ女生徒から、「幻滅しました」という訳の解らない手紙ももらった。その反面、今まで全然話したこともない男子生徒から「芹沢に認めてもらうなんて凄い奴だ。俺ら、見直したよ。今までお前を誤解してた」と両手を掴まれて涙ぐまれたり、「あのバンドに入るなんてスゴォイ! バンドギグ、絶対見に行っちゃう!」というような黄色い声援をやたら受けた。
 この校内で、芹沢という人間が与える影響の強さに、芳は正直舌を巻いていた。
(ひょっとしたら自分は、全然手の届かない相手にしがみつこうとしているのかもしれない・・・)
 自分の美少年ぶりが、芹沢の名前と同じくらいの影響力があるという自覚なしに、芳は一生懸命になって悩むのだ。真司みたいに本能だけで生きている人間とは違う。
 ガラリ。
 立て付けの悪い木製の引き戸が開いて、芳は後ろを振り返った。
 ドキリとする。
「せ、芹沢・・・」
 余裕がある時なら、何気なく「どうしたんだよ。昼休みに部室にくるなんて珍しいじゃん」と軽いセリフでごまかすのに、今日は思ってもみない不意打ちで、思わず本音が声に出てしまった。
(ヤバイ。ひょっとして俺、今、顔赤くなってないか・・・?)
 だがしかし、芳はこの芹沢真司という男をまだよく理解していない。この芹沢という男は、芳が考えているより、物凄く、ハンパでなく、かなりのライン、鈍感なのだ。
 案の定真司は、芳の慌てた様子に気づくことなく、いつもの調子で部室に入って来ると、芳の向かいの椅子にドカッと腰を下ろした。
「あ、お前、弁当なんだ」
 机の上の弁当箱に目をやって真司はそう言うと、自分は売店で買ったヤキソバパンを頬張った。
「芹沢って、いつも何か買って食べてんの?」
 少々緊張気味に芳が訊くと、ああと真司は頷いた。
「俺ン家、魚屋だろ。朝は仕入れやら何やらで家ん中戦争なんだ。呑気に弁当なんか作ってらんねぇんだよ。晩飯もカカアが忙しい時には俺が作ってっし」
 真司のこの発言に、芳は驚いた。この大きな身体をした男が、台所でエプロンをしてる姿などとても想像できない。
 それにしても、毎日こんな食事なんて・・・。
 少し悲しく思えてしまったのが表情に出てしまったのだろうか、俯いた芳の額を、真司の指がパチンと弾いた。
「いて!」
「お前、変な同情してんじゃねぇよ。世の中、手の空いた奴が働きゃ、それでいいんだ。別に弁当作ってもらえなくったって、親の愛情感じねぇってだだこねる年頃でもねぇしな」
 芳は、額を擦りながら真司を見つめる。真司はいたって呑気な顔をして5個目のパンを頬張りながら、窓の外を眺めている。
 芳は、クッと下唇を噛みしめた。
 こんなに凶暴な風情をしているくせに、今時の高校生にしては妙に達観したセリフをさらりと言ってしまう真司。
「なんか・・・芹沢って・・・」
 しかし、芳は、その先が続けられなかった。あの天の邪鬼病が再発して、素直に続きの言葉が出てこなかった。
 芹沢って、いさぎよくてカッコよすぎるよ、だなんて。
「おい、お前、発声練習すんだろ? ここんとこかなりマジそうだって噂だぜ。まさか俺もお前がこんなに律儀な奴だったとは思わなかった。どら、俺様が手伝ってやろう」
 最後のパンを500ccのパック牛乳で流し込んで、真司が言う。
「え? 手伝うって、どうやって」
 デカイだけあって、食べる量も豪快だなぁなんて思いつつ芳がそう訊くと、真司は椅子から立ち上がって、こう言った。
「立てよ。窓の外向け」
 芳は小首を傾げつつ、真司の言われる通り、窓に向かって立った。
「いいか。低音の声ってのは、本当に腹の底から声を出さなきゃ、様にならねぇんだ。剣道の居合いなんかそうだな」
 背後からそう言われ、芳は初めて真司に会いに行った時のことを思い出す。
 甲高い声を上げる剣士達が多い中で、真司だけは重低音の窓ガラスを震わせるような物凄い居合いの声を上げていた。その鋭さに、芳は背筋にゾクゾクとしたものを覚えたものだった。
「相手を自分のペースに引き込むには、相手を凌ぐ気迫がいる。それは楽器弾く時も歌う時も、なんだってそうだ」
 まるで今から剣道を習うみたいだ・・・と思っていた芳は、突然後ろから腹部に手を当てられて、驚きの声を上げた。
「ちょっ! 芹沢! 何してんだよ! これじゃまるで・・・」
 これじゃまるっきり、後ろから抱きすくめられているみたいじゃないかとまでは言えなかった。あまりに恥ずかしすぎて。
「何テレてんだ。剣道では最初こうやって訓練すんだよ。こうすれば、いやでも腹に力が入るだろ。ほら、声出せ」
「出せって言われても・・・」
 目の前のガラスに、顔を真っ赤にしている自分と、後ろから自分の身体に腕を回す真司が映っている。
「おらおら、もたもたしてっと、もっと締めるぜ」
 腹部に回された腕に、グッと力が込められる。芳は、軽い眩暈を感じた。
 温かい腕。腹部に感じる熱い手の感触。薄いワイシャツから伝わる真司のゆったりとした心音。真司がしゃべる度、耳にかかる吐息。大きな身体に包み込まれるこの感覚・・・。
「ダメだ、芹沢。段々気が遠くなってきた・・・」
 そう呟くのが精一杯だった。次の瞬間、芳の意識は暗転した。


 気づくと芳は、清潔そうな真っ白い天井を見つめていた。
「あ、気がついた。先生、気がついたよ」
 その声にハッとする。
 万喜子が、大きな瞳で自分を覗き込んでいた。芳は、ガバっと身体を起こす。
「よかった。真司の奴に絞め殺されたかと思ったよ」
 もう一人いた。彰だった。
 芳は、今一つ状況が把握できず、周りを見回す。どうやら、保健室のようだ。
 保健室の先生が、芳の顔を覗き込みながら、額に手を当てる。
「大丈夫みたいね。やっこさん、慌てふためいて君を担いで来たのよ。絞め殺しちまったってね。ちょっとショック状態になっちゃっただけよね。ま、あんな虎みたいな男に締め技決められたら、気を失うのも当たり前よ」
 目尻に優しい皺を浮かべて、保健室の先生が言う。どうやら芳は、真司に締め技を食らって気を失ったことになっているらしい。
「あっ、あの、俺・・・」
「そしたら、俺、教室に帰ります。彼、大丈夫みたいだから」
 芳の掠れ気味の声は、彰のセリフにかき消されてしまった。
「そうそう。今授業中なんだから、とっとと早く教室に帰る帰る。またおばさんが叱られちゃうでしょ」
 保健室の先生は、眼鏡をかけながらそう言って、自分のデスクに戻った。彰が芳の顔を覗き込む。
「これに懲りて辞めるだなんて言わないでくれよ。真司には、プロレスなんて悪ふざけするのは雄大と健史だけにしとけって釘差しとくから。じゃ」
 彰はそう言って、颯爽とした足どりで保健室を出て行く。
(プロレスだなんて・・・。違うのに・・・)
 芳は、カリカリと頭を掻いた。と、横から強い視線を感じる。何気なく目をベッド脇に向けると、姫が瞬きもしないで、じっと芳を眺めていた。
「姫は、教室に帰んなくていいのかい?」
 まるで日本人形に見つめられているようで、少し芳は、オカルトチックな恐怖を感じた。だが万喜子姫は、少しも怯むことなく、そのままの無表情で首を横に振る。
「アタシのクラス、今体育なの。それでね、アタシィ、今日ブルーデイでぇ~、すっごくお腹痛いからぁ、保健室に休みにきたのぉ」
 かわいらしく小首を傾げて万喜子は言う。芳は、絶対化けの皮被ってるよ・・・とか思いつつ、ひきつった笑みを浮かべた。
「でも何で真司君とプロレスごっこする羽目になっちゃったの? 真司君ああ見えて実は、ちゃんと相手見て暴れるよ?」
 万喜子に痛いところを突かれて、芳の顔が強ばる。
「いや、あれは、その、つまりプロレスなんかじゃなくて・・・」
「プロレスしてた訳じゃないのに、どうして気を失っちゃったの?」
「う。そ、それは・・・」
 芳は口を噤んだ。その先は、絶対に口にできない。
 真司に抱きしめられ、あまりに心地よすぎて気を失ったなんて。
(カーッ! チョー格好悪りぃ、俺!)
 ガリガリと頭を掻きむしる芳に、万喜子はクイッと片眉を引き上げる。
(何か最近芳君って、ワイルドよねぇ。真司君の影響かしら)
 芳には、いつまでも儚い美少年でいてほしいと願う万喜子としては、少々寂しい傾向である。
 と、突如保健室の引き戸が、大きな音をたてて開いた。
「お! よかった、気がついたか」
 真司は、大声でそう言って、ズカズカと保健室に入ってきた。
「あら、真司君。授業は?」
「資料室に世界地図取ってくるっつって、抜けて来た」
「あら、珍しく頭脳プレイね」
「健史が言ってくれたんだ」
「ハァ~イ」
 戸口で、珍しく帽子もサングラスもない健史が、手を振っている。こうしてサングラスをとった顔を見ると、なかなかサッパリとしたいい男である。
「それより、小泉。大丈夫か、お前」
「う。うん。まぁ」
「ホントにそっか? 顔赤いぞ、お前。熱でもあるんじゃないか?」
 真司がそう言って、芳の額に手をやる。芳の顔色が目に見えて真っ赤に茹で上がった。これには万喜子がギョッとする。
「おい、真司。時間もう限界。教室帰んないとヤバイ」
 健史が、自分の腕時計を指さしてそう言った。
「おお、そうか」と真司が顔を上げる。
「それじゃ、俺もう行くからな。おとなしく寝とけよ」
 真司はそう言い残して、来たときと同じようにドタバタと出て行ったのだった。
「まるで台風ね。芹沢は」
 眼鏡をずらし、苦笑しながら保健室の先生が言う。
(まったくだよ・・・)
 芳は深い溜息をついて、再びベッドに寝っころがった。
 その様子をじっと見つめていた万喜子は、実に興味深いことに気がついていた。
「芳クン、ひょっとして、真司君のこと好きなの?」
 芳の表情が、途端に硬直した。
「なななななな、なぁにを言ってるのかなぁ~?」
 ひきつった笑顔でそう言って見せるが、その芳の不自然さが益々疑惑を深めてしまう。
「ダメダメ、ごまかしたって。アタシ、解っちゃった。芳君、真司君のこと好きなのね」
 首を傾げて、万喜子は真っ直ぐ芳を見つめてくる。その漆黒色の曇りのない大きな瞳に見つめられ、流石の芳も、もう嘘をつけなくなってしまった。
 芳は、深い溜息をつく。
「やっぱ解るよね。ここんとこ、俺、おかしいんだ、かなり。自分が自分でコントロールできなくて・・・。でも、最低だ、こんなの。男に恋しちゃうなんて・・・」
 万喜子が、ベッドに頬杖を突く。
「そんなことないよ。だって、当たり前だもん。真司君のこと好きになるの」
「え?」
 芳は、万喜子に目をやる。万喜子はいつも通りの子猫みたいな笑顔を浮かべていた。
「真司君って、自分では全くモテない男だって思ってるけど、ホントは彼の隠れファンがいっぱいいること、アタシ知ってるよ。ただ皆、真司君に近づくだけの勇気がないだけ。事実、アタシ達だってそう。アタシも彰君も、雄大や健史君だってそう。みーんな真司君に恋してる。こんなに側にいて、真司君の魅力に参らない方がおかしいってーの」
「えっ、けど、それじゃ・・・」
「誤解しないでね。真司君には特定に突き合ってる人はいないから。アタシにだって彼氏いるし、彰君にも彼女いるわ。ただアタシが言いたいのはね、真司君は、特別だってこと。アタシ達皆の、ヒーローなんだ」
 万喜子が、屈託なく微笑む。そして、軽いパンチを芳の腕に食らわした。
「だからさ。折角持った自分の温かい気持ち、最低だなんて言ったら可哀想。なんかようやく、本当のお仲間になったって感じなのにさ。芳君がこれからその気持ちをどうするかは知らないかはけど、万喜子は最低だなんて思ったりしない。芳君のその気持ち」
「万喜子ちゃん・・・」
 芳は、胸が詰まって、その先もう何も言えなかった。
 ここのところ、痛感していたこと。吹奏学部にいた頃には感じたことがなかった感覚。
 ここには、真司の周りには、乱暴だけどこんなに温かい大切なもので溢れているって。
「あっ、もう授業終わっちゃう。アタシ、行くね。じゃ、放課後にまた元気に会いましょー。先生、ありがとねー」
 椅子からピョコンと飛び降りて、万喜子は元気に保健室を出て行く。
 何だか芳は、急に気が抜けてしまった。
 ゆっくりと、枕に頭を埋める。
 瞳閉じて、何度も何度も深く息を吸い、彼は枕に顔を押しつけた。こうしてないと、今にも涙が出てしまいそうで。

 

※1 オタンコナンス
「オタンコナス」の最上級系(笑)。究極的にどうしようもなくオタンコナスな人間につけられる、霊験新たかな(?)ありがたい称号。

 

魚屋ドレッド本舗 act.03 end.

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編集後記

魚屋ドレッド本舗を書いてる時は、BECKかシェリル・クロウの「everyday is a winding roadw」とか聴いてます。あと、OASISのセカンドアルバムとかね。なるだけ勢いのよさげ~な感じのものをよく聴いてます。

[国沢]

小説等についての感想は、本編最後にあるWEB拍手ボタンからもどうぞ!

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