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act.07

 

[8]

 雨は更に激しさを増し、ショーンを打ちのめした。
 走るだけ走って、スコットが後を追ってこないことを知ると、ショーンは電池が切れた人形のようにその場に立ちすくんだ。
 酷く頭が重くて、前が向けない。
 汚れたスニーカーのつま先に、雨粒なのか自分の頬を伝う涙なのか分からない液体が、次々と落ちて跳ね返る。
 全身濡れ鼠の自分は、この世の中で一番必要とされていない人間のように思えた。いや、それよりも価値がない人間と言う方が正しいのかもしれない。
 いずれにしても、自分の世界が終わりを告げたかのような気持ちだった。
 身体は自然に酸素を吸って吐いてと自発的に繰り返しているが、もはや考える、感じるといった人としての機能は一切停止していた。
 このままいけば、本気で死んでしまうかもしれない。
 悲しすぎて、死んでしまうのかも。
 近くで車が通る音がして、車の跳ね上げた多量の水飛沫がショーンの身体を更に濡らした。
 ショーンが顔を上げると、雨粒の垂れる車の窓越し、奇異なものでも見るかのような視線の男がショーンを見ていて、ショーンと視線が合うと車のスピードを上げて走り去って行った。近所ではないが、同じ住宅地に住んでいる男だ。もうそんなところにまで、スコットの噂が流れてしまっているというのか・・・。
 ショーンは周囲を見回した。
 ショーンの目に人影は映らなかったが、何となく気配は感じるような気がした。
 ショーンはゆるゆると歩き始める。
 周囲を見回した結果、周りの景色が『スコットとの思い出』という痛みと一緒にショーンの瞳に突き刺さってきた。
 あそこはスコットとペンキ塗りのバイトをしたフェンス・・・、あそこの木下で転けて泣いた俺をスコットは優しく抱き上げてくれたっけ・・・、あそこの店ではキャンディーバーを買う買わないで揉めたよな・・・。
 周りの風景がショーンを責めるように覆い被さってくる。
 ショーンはそこに立っていることすら辛くなって、再び走り出した。
 みっともなく、声を上げて泣きながら。
 昨日まで優しかった町の空気が、今日はまるで凶器だ。
 走っても走っても馴染みの風景ばかりで、ショーンは愕然とする。
 この町に、スコットとの思い出から逃れられる場所など、ないことに。
 身体は大人でも、ショーンのまだ少年の面影を色濃く残す心は、それに一人きりで立ち向かう知恵や勇気など持っていなかった。

 隅っこの塗装が剥げて赤サビがこびり付いたドアをノックすると、しばらくの間が空いて、ギギギと軋んだ音がした。
「何か、ご用?」
 そう言って顔を覗かせた年輩の女性は、全身ずぶ濡れのショーンを見るとあら大変とばかりにすぐドアを閉めてしまった。
 ショーンは駄目もとで再度ノックする。
 今度はすぐにドアが開き、銜え煙草のクリス・カーターが顔を覗かせた。
 クリスはショーンの泣き腫らして真っ赤になった瞳を見ると、少しだけ柔らかな微笑みを浮かべた。
「・・・まぁ、入れば」
 そう言って彼は、大きくドアを開けてくれた。

 結局、悔しいがクリスの言った通りになってしまった。
 けれど、この小さな町でスコットの柵から逃れることのできる場所なんて、どこにもない。この町にはスコットとの思い出が詰まり過ぎて、彼と来たことがない場所でショーンが今行ける場所といったら、ここしかなかったのだ。
 クリスは、一階の事務所の奥にある廊下の先の部屋にショーンを通してくれた。
 ドアを開けると、そこは小綺麗な家のリビングのような様子で意外にも素朴な家具や調度品が並んでいた。南部のよき時代に裕福な家庭が挙って買い求めた、ヨーロッパ風のローテーブルやチェストがひっそりと置かれてある。
 一目見てクリスの私的な部屋だと分かったが、正直こんな昔かたぎの品のいい落ち着いた部屋でこの男が生活しているとは意外だった。
 奥の方には小さなキッチンへと繋がる通路と別の部屋に続くドアが見える。そのドアの先は寝室だろうか。確かに一般家庭の部屋よりも狭いが、決して重苦しい部屋ではなかった。
 クリスは寝室に一旦入ると、しばらくして大きなバスタオルと着替え、大きなビニール袋を持って出てきた。
「まずはその頭を拭いて、着替えたら。サイズは少し小さいかもしれないが、入るだろう。下着まではないから、そのまま履けばいい。別にそういうところを気にしたりはしないだろう?」
 クリスはそう言うと、ソファーの上にタオルと着替えを放り投げ、キッチンに姿を消す。
 ショーンはずっしりと重くなった服を全部脱いで残らずビニール袋に入れると、身体にまとわりつく水滴をタオルで拭いて、クリスの用意してくれた服を着た。ネイビーブルーのシンプルなTシャツに履き古された緩めのストレートジーンズ。
 ショーンはバスタオルを首に引っかけると、ソファーに座った。何となくほっとして溜息をつく。
 しばらくして、クリスがマグカップを手に戻ってきた。芳ばしいドリップコーヒーの香りが部屋に充満する。
「飲みな。身体中の水分出し尽くしたってツラしてるぜ」
 ショーンは素直に受け取ると、一口コーヒーを口に含んだ。じんわりと心地よく身体に染み渡ってくる。クリスは、ショーンの向かいのローテーブルに行儀悪く腰掛けると、「モカコーヒー、ブランデー入り」と言って微笑んだ。
 ショーンが目線を上げると、「そういう気分なんだろ? 心配しなくても、少ししか入れてないよ」と煙草を吹かした。
「・・・ありがとうございます」
 ショーンが酷く掠れた声でそう言うと、クリスは顔を顰めた。
「しおらしいお前さんなんて、らしくないね」
 ショーンは鼻を啜った。
 身体が温まったら、また新たな涙が込み上げてきた。だがショーンは、唇を噛みしめて涙を堪える。
 クリスは、ショーンの隣に腰掛けると、ショーンの頭にバスタオルを被せた。
「何だよ。さめざめと泣くな。泣く時は、思い切り泣くがいいさ。心の欲するままに」
 次の瞬間には、頭を掴まれてクリスの肩に押しつけられていた。
「安心しろ。お前さんの泣き顔をちゃかすつもりはないし、恩を売るつもりも更々ない。肩を貸す金はツケといてやる。有料なんだから、思う存分好きなだけ好きなように使うがいいさ」
 どこまでクリスが本気で言っているのか分からなかったが、クリスの言ったことでショーンの中の遠慮や我慢がほろほろと解れて力が抜けた。
 ショーンはバスタオルの端っこを掴むと大きな声を上げて泣いた。
 人の温もりが欲しかっただけに、物凄く嬉しかった。

 泣くだけないてしまうと、急激に腹が減ってきた。
 思えば、朝食べてから今まで、何も口にしていない。時刻は三時になろうとしていた。
「腹減った」
 ショーンがそう呟くと、クリスは吹き出した。
「現金な奴だ」
 クリスは笑いながらソファーを立つと、キッチンに姿を消した。
 しばらくして、大きなトレイの上にホットドッグをのせて帰ってくる。
 大きなソーセージの上に茹でたキャベツと粒マスタード、ケチャップがのっかっているシンプルな代物だ。
 ショーンは泣き腫らした顔つきのまま、口を尖らせて「ありがとう」と呟くと、一心不乱にかぶりついた。
「もっとゆっくり食ったらどうだい」
 再びクリスは、ローテーブルに腰掛け、新たな煙草に火を点ける。
 ショーンはくごもった声で「スコットが作ったホットドックの方が上手い」と言い放つ。
 クリスは顔を顰めたが、すぐに笑顔に変わった。
「面倒見る甲斐のない奴。・・・全く、スコットはよくぞお前の面倒を見てきたものだよ」
 その言葉に、ショーンは眉間に皺を寄せる。
「スコットのこと知ってるの?」
「ん?」
 クリスは少し小首を傾げる。
「ああ、まぁな。以前に少し。お前さんのこと心配して、ここに相談に来たことがある。お前さんに、音楽が自由にできる場を持たせたいけど、どうしたらいいか分からないってさ」
 ショーンは純粋に驚いて見せた。
 まさかあのスコットが、そんなことを相談に来ていたとは、本当に意外だった。
 だってスコットは、ショーンがここに来ることをあれほど毛嫌いしていたからだ。スコットがここに相談にきていた時期が随分前のことだとしても、あのスコットの態度は不自然過ぎる・・・。
 二人の間に、何かあったのか。
 クリスは、スコットの秘密を既に知っていて、それでショーンがクリスに近づくのを恐れていたのか。それとも・・・。
 頭に浮かぶ様々な憶測を抱きつつ、難しい顔でショーンが自分を見つめているのに気づいたクリスは、苦笑を浮かべた。
「あんまり勘ぐるなよ。お前の父さんは何も悪いことはしてないぜ」
 クリスがショーンの足先を軽く蹴る。
「それほど心配してんだよ。お前さんのことを。大きな愛じゃないか。チープな噂でそれほどお前さんがショック受けるなんて、あっちの方こそショックだろ」
 例の噂はクリスのところまで届いているのだ。
 けれど、クリスの考えは的が外れている。
 そんなことは、端から気にしてなどいない。むしろ、ショーンにとっては有利な展開だった。けれど・・・。
「・・・なんだ。どうやら違うようだな」
 ショーンの表情を見て、クリスは理由が別にあることに気が付いたらしい。
「人は大人にならないと、大人とは愛し合うことができないものなの?」
 腹ごしらえの効果だろうか。
 先程までの苛立ちとは別の、純粋で落ち着いた疑問が口をついて出た。
 クリスは、その一言で事態を把握したらしい。
 流石のクリスも、少し驚いた顔を見せた。
「見た目はもう大人と変わらないし、この気持ちだって、どんな人より負けない自信がある。けれど、駄目なんだって」
 ショーンは、ソファーの背に頭を預けて、天を仰ぐ。
「スコットは、俺の本当のオヤジの事が物凄く好きだったんだって。だから俺をオヤジと重ねちゃうんだって。そしてそれが許せないんだって。俺のことを愛してるから、それが俺にとって辛いことになるって分かってるから、自分が許せないんだって・・・」
 ショーンは力無く笑う。
「お互いにこんなに愛し合ってるのに満たされないなんて、皮肉だよね」
 ショーンは両手で顔を覆った。
「受け止められなかった俺の気持ちは、どうしたらいいんだよ・・・」
 そう吐き出すショーンの腕を、立ち上がったクリスが掴んだ。
 ショーンが呆然としてクリスを見ると、クリスは有無を言わさない力でショーンを立ち上がらせ、部屋から連れ出した。
「ちょ・・・! 何だよ! どこに行くんだよ!!」
 クリスはショーンの腕を掴んだまま、入り組んだ通路を通り小さな階段を上がった。
 階段の先にあるドアをクリスが勢いよく開けると、そこは劇場のステージ袖だった。
「何だよ、ここって・・・」
 躊躇っているショーンにお構いなしにクリスはショーンを引っ張ると、ステージの袖に置かれてあったギターを手に取らせた。
 シャンパン色のレス・ポール スタンダード1959。
 ジョン・シーモアのロックオペラ公演で使われている名器だ。
「こ、こんなの弾けないよ!」
 じたばたと慌てるショーンの肩にギターのベルトをかけると、クリスはステージの上にショーンの身体を突きだした。
 ステージは照明が全て落ちていて暗かったが、それでも目の前に広がる広い空間に、ショーンは戸惑いを見せた。
「お前がオヤジの身代わりなんかじゃないって証明する方法は、ひとつしかないだろ? お前自身の音を聴かせろ、声を聴かせろ。お前なら、できるだろう?」
「できる訳がないよ! 何も知らない癖に!」
「ああ、何も知らないさ。お前の親父がビル・タウンゼントだってことも、お前が父親みたいになるのを恐れて、人前でギターを弾くことも歌を歌うこともしなくなったことなんてな。自分の生い立ちに縛り付けられて、逃げ腰な男のことなんか、これっぽっちも知らないね」
 ショーンは、口を戦慄かせてクリスを見る。
 クリスは険しい顔つきで、こう言い切った。
「お前にもう一度ここに来いと言ったのは、スコットから頼まれてたせいでもなんでもない。俺が見込んだのは、お前の音だ。お前の音を聴いたからなんだぞ」
 ショーンは、自分の身体にぶら下がってるレス・ポールを見つめた。
 素晴らしく優美な線を描く美しいギター。
 クリスが、舞台袖のアンプの電源を入れる。
 一瞬、キンと金属的な音が響いた。
 クリスは、そのまま何も言わずホールを出て行く。
 バタンとドアが閉まる音が響き渡って、やがて怖いほどの静寂が流れた。
 ショーンは、恐る恐る弦を撫でる。
 キュキュと弦が弾むように鳴いた。
 ショーンは、弦の先に挟まっているピックを手に取ると、弦を鳴らした。
 丸いそれでも刺激的な音がアンプから飛び出してくる。調律は完璧だ。
 ショーンは泣き笑いのような表情を浮かべると、踵をうちならしてリズムを取り、歴史上の偉大な曲を弾き始めた。

 「あれは天性のものだな」
 二階席の一番奥で、ジョン・シーモアがステージを見下ろしながらそう言った。
 その隣にはクリスが腰掛けていた。
 ショーンが奏でるギターは、ギター自身がまるで歌っているように複雑な音符を絡ませた。ショーンの歌声はマイクに拾われている訳ではなかったので、アンプから出る音にかき消されていたが、それでも時折聞こえる声は独特の憂いを持った大人顔負けの魅力を醸し出していた。
 ステージ上の縦横無尽に動き回り、足で床を踏みならし、激しい動きで身体の底からギターの音を絞り出しているパフォーマンスに、ジョン・シーモアは釘付けになっているようだった。
 ショーンがギターに初めて触れてから十六年の間、鬱積していた思いが一気に吐き出されたパフォーマンスだ。迫力を通り越して凄みすらあった。
「君も隅に置けないな。あんな才能を隠してたなんて」
 ジョンにそう言われ、クリスは複雑な表情を浮かべた。
「隠してた訳じゃない。これから生き続けて行くために必要だったんだ。彼にとって」
 まさかクリスがそんな感傷的な台詞を吐くとは思ってもみなかったのか、ジョンがクリスの横顔を見て少し微笑む。
「いずれにしても、彼の才能は唯一無二のものだよ。このままにしておくべきじゃない。もしよかったら、公演に彼は出せないだろうか。丁度、ジェット役のスタンレーの指の怪我の状態が酷くてどうしようかと思っていたところだ。演技に抵抗があるなら、最後のライブシーンの時だけ参加してくれればいい。他の演奏があるシーンは、舞台袖でギターを弾いてもらうだけにすれば、演技をしなくても済む。明日の公演は無理だろうが、彼なら明日一日リハーサルを見て貰えれば、明後日の公演は大丈夫なはずだ。承諾してもらえれば、すぐに台本を手直しするが」
 クリスがジョンを初めて見た。
 思う存分歌い、弾き終わって、ステージ上に倒れてるショーンを手で指し、「失恋したばかりで、あんな風にぶっ倒れてるガキだぞ?」と呆れた声を上げた。しかしジョンは、微笑みを消すことはなかった。
「下手な芝居だな。クリス・カーターともあろう男が。最初から、狙ってたんだろ?」
 ジョンは席を立ち、クリスの肩を叩くと、「説得、よろしく」と一言残してホールを出て行った。
 クリスは、前の座席に凭れてステージを見下ろす。
 ショーンは、胸でゼイゼイと息をしながら汗まみれの顔でぼんやりと宙を見つめていた。その表情は、今日最初に裏口のドアを叩いた時のショーンとはうって変わって、すっきりとした穏やかな顔つきだった。

 

don't speak act.07 end.

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編集後記

今週、大雨模様のドント・スピークでしたが、いかがだったでしょうか?
大雨と言えば、新潟の方、大変でしたね・・・。実は、国沢の住んでいるところも、三・四年前か、水害に見舞われて凄いことになってました(汗)。幸運なことに自宅周辺は水に浸からなかったのですが、会社の周辺は見事に浸かってました。同僚の車も廃車になり、親のやっている店にもどこからか流れてきた魚の頭が・・・(花屋なのに)。商品も軒並み全滅で、水が退いた後は泥とゴミの山。臭いも酷くて、街中が臭かったように思います。

そして国沢はといえば、現在超多忙な日々を過ごしています(汗)。
三連休の間に仕上げなければならない仕事が今日入ってきて(青)、ただでさえオラオラ状態なのですが、この季節の国沢は、私的にももっとオラオラなんです。
去年の今頃、サイトを訪れていただいていた方ならお察しでしょうが、夏になると国沢、途端に落ちつきなくなるんです。外気も熱けりゃ、己も熱い!
そう! 祭り!!
祭りだ、祭り!!!
国沢の住んでいる地域では夏恒例のお祭りが8月ありまして、突如現れた街宣車のような地方車に大音響を放つ巨大スピーカーを乗せて、うん万人(うん十万人?)の一般市民が踊る踊る!!正に狂ったように二日間踊り明かします。実は、国沢もその踊り子の一人でして(汗)。年甲斐もなく、現在踊りの稽古にいそしんでおります。
今年は特に力が入っておりますよ~。
なぜなら、なぜならおいら、8月末に東京でも踊りを踊ることになっておるのです・・・・(力汗)!!
原宿かどこかだと思いますが。
東京近郊にお住まいの皆さん、生国沢が見られるチャンスですよ(笑)。
といっても、1チーム150人いるのが複数チーム行きますからね(笑)。多分、というか絶対にどれが国沢かは分からないと思いますが。
でもよければ見に来て下さい。楽しいですよ。

[国沢]

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