act.03
「こちら、羽柴耕造さん。特例ですが、本日限りのボランティアとしてお手伝いしていただきます」
スタッフルームで日下部院長から紹介されたその男は、昨日と同じ人なつっこい笑みを浮かべ、「よろしくお願いします」と頭を下げた。
本来なら、どこの誰かも分からないような人間をたった一日だけのボランティアとして病院の中に入れるとは、杉野にはとても信じられないことだった。現に、他のスタッフも戸惑いを隠せず、互いに顔を見合わせている。
日下部もスタッフ達の感情を承知しているのか、更に彼をこう紹介した。
「彼は、須賀真一さんととても親しかった方です。事情があって海外に住まわれている羽柴さんですが、一時帰国している間に、ぜひとも皆さんにお礼がしたいと仰ってくださいました」
それを聞いて、昔からいるスタッフの顔が和らいだ。ああ、と合点がいった様子だ。大多数のスタッフが古いメンバーなので、その場の空気が一気に緩んだ。
羽柴が口を開く。
「僕は須賀君と恋人としておつき合いをさせていただいていました。彼の希望で僕は彼の最後を看取ることはできませんでしたが、心の整理がついた時はぜひ一度ここを訪れたいとずっと思っていました。今日僕は、念願叶ってここに立っています。それがとても嬉しいんです。真一の最後を有意義なものにしていただいた皆さんに恩返しがしたいと思って、ご無理なお願いとは分かっていながら、院長先生にお願いしました。不慣れなことばかりだと思いますが、どんどんこき使ってやってください」
自然と拍手が沸き起こった。
中には、昔のことを思い出して涙ぐんでいるスタッフもいる。
正直、杉野はかなり驚いた。
務めて表情には出さなかったが、目の前の男の存在が信じられなかった。
杉野は、須賀真一というかつての患者がどういう事情で亡くなったかは分からなかったが、羽柴の発言から推測するにきっとHIVウィルスが発症してこのホスピスにきたのだろう。
ホスピスには、末期の癌患者とエイズ患者しか受入が許されていない。
隼人がゲイであることを考えると、きっとこの羽柴という男もゲイなのだろう。現にこの男は、須賀真一と恋人だったと公言しているではないか!
杉野は、意外なほど大きなショックを受けている自分に戸惑った。
杉野は別にゲイに偏見を持ってる人間ではない。
大学時代にも、周囲にそんな趣向の友人もいたし、彼らがきちんとした良識を持つ普通の人々であることも知っている。
だから、HIV患者の受入もしているこの病院では、ゲイである患者に出会う確率が他の病院より多いはずだ。
頭では分かっていながら、杉野は自分がなぜこんなにショックを受けているのかが分からなかった。
つい目で隼人がこの場にいるかどうか探してしまう。
けれど隼人が今日午後からしか来ないことに気が付き、なぜそんなことが気になるのかと、再び自分を叱咤した。
やたら落ち着かなかった。
朗らかな笑い声が沸き起こっている。
ホスピスの近くにある公園までの散歩道。
桜はもう散ってしまったが、様々な草花が土手の周辺に咲き誇っている。
季節のいいこの時期、外の空気を楽しみたいと希望する患者をつれての散歩は杉野の務めるホスピスで重要な日課だった。
景色がいいと評判の公園は高台になっていて、散歩を希望する患者の殆どが車いすに乗っているため必然的に公園の上まで昇ることはなかった。それでも公園の周りだけでも十分綺麗なので、そこで諦めて帰ってきていたのだが。
「上まで行ってみましょう」
そう言い出したのは、羽柴だった。
「どなたか車いすだけ上に運んでいただければ、僕が皆さんを抱き上げて階段を上がりますから」
羽柴のその台詞に、本日の参加者四人の患者が互いに顔を見合わせる。
三人は60代から70代のご婦人だったが、残りの一人はまだ40代の大柄な男性だった。
「やぁ、羽柴さん。小川さん達は大丈夫かも知れないけれど、僕を上げるのは無理ですよ。何なら、僕は下で待ってますから、皆さんを上げてやってください」
その男性患者・・・斉藤一臣がそう言う。
「何を言ってるんですか。皆で上がらなきゃ意味がないでしょう」
羽柴がそう言って斉藤の肩を軽く叩く。
驚くことにこの羽柴という男は、午前中ほんの数時間の間に殆どの入院患者の信頼を勝ち取っていた。
その朗らかな雰囲気のせいだろうか。
ニコニコと清々しい笑顔を惜しげもなく浮かべる羽柴に、皆楽しそうな笑顔で答えた。
死期を確信しているホスピス患者の中には、自分の死と折り合うまでの心の整理ができておらず、神経過敏な患者も多くいるが・・・この斉藤もそうである・・・、羽柴はありのままの彼の姿で、患者の輪の中に入っていった。それが返ってよかっただろうか。
今では、早くも冗談まで言い合う仲になっている。「ご婦人方は、お姫様だっこで行きますが、斉藤さんもお姫様だっこがいいですか」と生真面目な顔つきでそう言う羽柴の台詞に、一同が大声を上げて笑っている。
「不安だなぁ」
斉藤がわざと嫌みっぽくそう言っているのがいい例だ。
そんな表情など、心に余裕がなければ出てこないはずだ。
羽柴はTシャツの腕を捲りながら、充実した筋肉がしっかりとついた腕に力瘤を作って皆に披露している。アメフトをやっていたということだけあって、羽柴は日本人離れした体躯をしていた。きっと今でも身体を鍛えているのだろう。現役のスポーツ選手と言ってもおかしくはない。
「じゃ、口うるさい人から運びましょうかね」
羽柴はそう言うと、さっさと斉藤を背中におぶって、長い階段をスタスタと上がり始めた。周りのスタッフも慌ただしく斉藤の車いすを畳んで運ぶ。
結局、そう時間がかからない間に、羽柴は全ての患者の身体を楽々と運び上げてしまった。
70過ぎのおばあちゃんが逞しくてハンサムな羽柴にお姫様だっこをされて、黄色い声を上げている様はなかなか微笑ましかった。
「うわぁ~、何て綺麗なんでしょう」
周囲に高い建物がないだけに、素晴らしい見晴らしが広がっていた。
遠くに見える遅咲きの桜林までしっかりと見える。
こんなことなら、皆で頑張ってもっと早くに上まで昇っていたらよかったわねと付き添いのスタッフ皆が口々にそう言った。
「こんな景色がまだ見られるなんて・・・」
一番消極的だった斉藤が、そこまで言って言葉を詰まらせた。そして彼は、何も言わずずっと景色を眺め続けた。
「ありがとうございます、羽柴さん」
付き添いの中で一番年輩のスタッフが、羽柴に頭を下げた。羽柴は「そんな、頭を上げてください。体力だけが自慢なんですから」と慌てている。
本当にいい人なんだなぁと杉野は思った。
『本当にいい人』だから、皆がすんなりと彼の存在を受け入れたのだ。
杉野は、そこに複雑な感情を覚え、そっと苦笑いした。
結局、お昼もお弁当を作ってここで食べましょう、ということになり、急遽スタッフの幾人かが病院に取って返し、簡単な花見弁当をこしらえてまた公園まで帰ってくることになった。
皆普段より食が進むのか、スタッフの分の弁当にも箸をつける患者もいた。
杉野も弁当を受け取って、皆が景色を楽しむ場所から少し離れたところに腰をかけ、ほっと一息をつく。
長時間の外出で疲れが身体に出ていないか先程全員のバイタルチェックをして、杉野も必要と思われる薬剤を取りに病院まで往復していたからだ。
介護士とは違って、引率の医師は別の意味で気を使う。
こんな朗らかな散歩でも、ある種の緊張が途切れることはない。
杉野は、まだそこら辺の緊張感を上手くコントロールできずにいた。やはり、救命センターの頃の名残が身体に染みついているせいだと思う。
杉野の溜息をまるで受けるように、人影が杉野の隣に滑り込んできて腰を下ろした。
羽柴だった。
「お疲れさまです。俺が言い出したことで、杉野君にも余計な苦労をかけちゃったかな」
さらりとそう言われ、いえ、と杉野は答えた。本当なら、僕等スタッフの方がもっと早くやるべきだったんですと後を続けた。それは杉野の本心だったので、すんなりと言葉に出た。
杉野がそう言ったことに羽柴は明らかにほっとした安堵の表情を浮かべた。
羽柴がなぜそれほどまでの表情を浮かべるのか、杉野には分からなかった。
杉野が怪訝そうに羽柴を見ると、羽柴はテレ笑いを浮かべた。
「杉野君、俺のこと嫌ってるだろうと思って」
思わずドキリとした。
別に嫌っている訳ではなかったが、なんだか心が見透かされたようで、杉野は内心穏やかではなかった。
「どうしてそう思うんです?」
杉野がそう訊くと、羽柴はう~んと唸って「だって君は、俺が最初隼人と顔を合わせた時からずっと気難しい顔をしているから」と答えた。
杉野は思わず頬に熱が上がるのを感じた。
「えっ! そ、そうですか?!」
杉野はあからさまな恥ずかしさを覚える。
だが、羽柴の次の言葉で杉野の顔色は更に真っ赤になった。
「君、隼人のこと好きなの?」
一瞬で杉野の頭の中が真っ白になった。
随分長い時間、何も言えなくなって口をパクパクとさせた。
明らかに、こんな露骨な動揺を表に出すのは久しぶりだ。
「ご、ごめん。驚かせちゃったかな。取り敢えず、お茶、飲んだら」
羽柴の分のパック茶を差し出され、杉野はそれが羽柴の分のお茶であることさえ気付くことができず、一気に中身を空にした。それでなんとか呼吸ができるようになる。
「ああ、すみません! 俺、羽柴さんの分のお茶・・・」
「や、いいからいいから。随分驚かせてしまったのは俺の方だし」
ね、と羽柴があの朗らかな笑顔を浮かべる。杉野は再度小さく「すみません」と言って頭を下げた。
「きっと杉野君なら大丈夫だよ。君、仕事に対する姿勢も誠実だし、ひたむきな感じが凄くステキだ。それに、君のルックスも隼人のストライクゾーンだと思うよ」
羽柴にそう言われ、杉野は再びあたふたとする。
「すすすすみません。あの、とんでもなく沢山訊きたいことがあるんですけど・・・」
汗だくの杉野に、きょとんとしている羽柴。
「え? 何だろう」
「ええと、まず、その・・・」
いつもはすんなりと状況が分析できて、的確な質問なり解答なりが弾き出せるのに、今の俺と言ったら・・・。
杉野は額の汗を拭い、大きく息を吐き出してまずこう切り出した。
「俺って、隼人の好みのエリアにいるんですか?」
── ああ、ダメだ。そんなことを訊きたい訳じゃない。や、少しは訊きたいと思ってるけど、今はそれより重要な質問があるはずだ・・・
一人当惑している杉野を余所に、羽柴は素直に杉野の質問に答えていく。
「きっと、いや、絶対そうだと思うけどなぁ。昔はちゃらちゃらした楽しければそれでいい、みたいなしょうもない男ばかりにひっかかってたけど、今はそんなこともないし。でもアイツ、面食いなところだけは変わってないみたいだから・・・。ほら、杉野君、普通にしてても格好いいけど、バリバリ仕事してるところとか更に格好いいもんな。君、もうちょっと自分に自信持った方がいいと思うよ」
「あ、や、すみません。俺、質問の順番間違えてます・・・」
「うん? ああ、分かった。どうぞ、質問続けて」
「ええと・・・。あの・・・。羽柴さんこそ隼人と付き合ってる訳じゃないんですか?」
その質問が杉野の口から出て、羽柴はやっと納得したような顔を浮かべ笑い声を上げた。
「いやぁ、ごめん。つい笑っちゃって。そうかぁ、誤解してたんだな、君。それで益々不機嫌だった訳だ」
どうやら羽柴の中では、杉野が隼人のことを好きであるということが固まりつつあるようだ。杉野は慌てた。
「いや、でも、俺、梶山のことが好きな訳じゃないですよ。あ、そりゃ、同僚としてはもちろん信頼しています。だからと言って、そういう意味で好きかどうかっていうのは別問題で・・・」
あれ? 違うの?と羽柴は目を剥いた。
「君、ヤキモチやいてたんだろ? 俺に」
「や、ヤキモチなんて・・・」
止めどなく額から汗が流れ落ちていくのが分かる・・・。
「でも君、俺と隼人が付き合ってると思って、おもしろくなかったんだろう? 少なくとも、機嫌がいい訳じゃなかった筈だ」
確かに羽柴の言う通りだったので、流石の杉野も返すことができなかった。
羽柴は優しく微笑んで、「人はそういうのを『ヤキモチ』って言うんです。君は自分の気持ちを知っているのに、認めていないだけなんだよ」と柔らかく言った。
come again act.03 end.
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編集後記
現在、新潟で相次いで地震が起こっていますね。
少し前に国沢が住んでいた地域でも地震が続いたので、人ごとのようには思えないです。とっても怖いですね。本当に地震って恐ろしい・・・。前回の地震でも、かなり怖くて夜眠れませんでした(汗)。
最近本当にいろんなところが揺れていますね(大汗)。何かの前触れでしょうか。
自然の力って、本当に恐ろしいと思います。
くれぐれも新潟に在住の方、お気をつけ下さい。(っていっても、新潟の方は、こんなサイトに来ている暇はないですよね(汗))
[国沢]
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